針はたぶん止まらない



「んじゃ、ちょっと行ってくる」
「い、ってらっしゃい、」

 気をつけてね。
 夕飯も食べるけど、さらにビールも飲みたいなんてわがままにも、たった数分の道のりにも、律儀にそう言ってレンは笑う。徒歩で行くつもりだった予定を、自転車に変えて突っ走った。三月に入ってもまだ夜は肌寒くて、コートを羽織らずに出てきたことを、すこし後悔した。もうすぐ出来上がるだろうカレーと、それを小難しい顔で味見するレンの顔を思い浮かべながら、ペダルをこぐ。
 カレーは翌日の方が美味いとか、いっぱい作った方が美味いとはよく言われることだと思う。オレは別に食えりゃいいやってタイプだけど、レンはカレー作るってなると毎回何だかこだわりだす。いつかレンの家で食べたカレーは給食みたいなでかい鍋に作られてたっけ。あいつにとってはそれが普通なのかもしれない、と思い至ったところで、自転車を止めて明るいコンビニに入った。





 勢いづいてドアを開けると、たどたどしいおかえりなさいと一緒に、スパイスの匂いがたちこめる。鍋をのぞきこもうとすると、「まだだめだ、」という声。手早く水を切ったレタスとトマトで簡単にサラダを作りながら、レンが口をとがらせる。もうちょっとだからね、さりげなくつまみ食いを注意された気がして、笑った。
 コンビニ袋から缶ビールと牛乳プリンを取り出して、テーブルに乗せた。いったん火を消して、レンもこちらに来る。小皿に盛った漬物をオレの前に出したところで、プリンに気づいたらしい。オレがコンビニ袋を片付けないことに文句を言いながら、ちらちらとプリンを見ているのがおかしくて、プリンをわざとレンの前に置いてやった。

「……ご飯、なのに、どうして買ってきたんだ」
「や、うまそうだったから。好きだろコレ」
「すき、だけど、」

 だけど、と言いながら、レンはふたのふちをいじる。その動きから、風呂上がりとか寝る前とか、後で食べるって選択肢が消えてきてるのが分かった。でなきゃすぐに冷蔵庫に入れてくるはずだから。牛乳プリンは新しい味が出るたびに、こいつが目を輝かせて買ってくるぐらいお気に入りだ。パッケージの太陽とおんなじ顔をして、嬉しそうに食べるのを何度見たかしれない。

「……変、に、太ったら、タカのせい、だからね」
「おー太れ太れ、お前細っこいんだもん」
「う、く、細く、ない」

 レンは背が伸びた割に体重が一向に増えない。部活は続けてるから相当投げ込んでるはずだし、飯も高校のときと同じくらいかそれよりは食ってるのに、面白いぐらいに増えない。こいつの肩や手首の骨ばった感触はすきなんだけど、もう少し肉をつけてもいいと思う。………まあ、それだけの理由で買ってきたわけじゃないんだけど。
 とうとう誘惑に負けて、レンがふたを開けた。それを見届けてから、ビールのプルトップに指をかける。

「なに、食うの?」
「む、タカだって、ビール、」
「そりゃ飲みてェから買ってきたんだもん」
「……残さないでね、ごはん」
「カレーだろ? おかわりすっけど」
「……ふへ、」

 漬物をつまみながら、一口。同じようにレンもプリンを頬張る。
 最初こそ不味いと思ったビールは、飲む回数を重ねるうちに次第に美味く感じるようになってきた。レンは苦いのがいやだとかのどが変な感じになるだとか何とか言って飲みたがらない。オレも毎日飲みたいとまでは至ってないから、常備はしない。部活帰りや今みたいに買いに走ったりするくらいだった。不意に視線を感じて目線を上げれば、既に空になったプラスチック容器とレンに行き着く。もっと味わえっての。

「ん?」
「あ、その、お、おいし、そうに、飲むなあ、って」
「美味いもん、そりゃ」
「タカ、オトナ、みたい」

 レンがうらやましそうに言った。いや同い年じゃん、お前のが年上じゃん、そう笑えば、何か、でも、オトナだよ、と返される。コーヒーといい、レンの中では苦いものが飲めることがオトナなんだろうか。そりゃ高校のときに比べれば体格もちょっとは変わったし、頭も、まあ、回るようになった。でもそんな簡単に変わることなんか出来ねェし、変わりたくもない、と思う。
 最後の一口をぐいっと飲み干して、缶を置く。それを見たレンが、カレー鍋に火を点けに戻る。もうちょっとしたら手伝って、と言われたので、何とはなしにテレビをつけた。ザッピングを繰り返して、結局ニュース番組で落ち着く。





 レンと住むようになってしばらく経つけど、お互いにまだ慣れない部分はある。レンにとって、やっぱりここはオレの家らしく、何かっていうとオレの許可を取る。最初のうちは鍋を使っていいかとか、テレビをつけていいかとか聞いてきて笑ってしまった。「ここはお前の家だよ」って言ったら、それ以降ちょっとおさまったけど。こいつの性格を考えたら仕方ないか、と割り切るようになった。
 キッチンからレンが顔を出して、トンカツを温めて切ってほしいと言う。今夜はカツカレーか、と鼻歌交じりでレンジで温め直したカツを切る。

「タカ、それ、カツおっきい、」
「そうかあ? こんなん一口だって」
「もったいない、じゃないか」
「つっても、全体の量は変わらねんだからさ」
「うん、?」

 その後もぎゃあぎゃあ言いながら器に盛り付け、何とか食べる準備が整った。いつもの「うまそう」をやってから、湯気の立ち上るカレーにがっつく。ただでさえカレーに具がたっぷり入ってるのに、その上に乗っけられたトンカツでかなりボリュームがある。その量でさえ早々に食い終わって、キッチンへ向かった。デカイ鍋買っといてよかったな、と思いながら本日二杯目のカレーをよそう。
 こうしてふたりで一緒に飯を食えるってことが、本当にしあわせだと思う。こいつが作って、たまにオレも作って、しょっぱいよって笑われて、嘘つけって食ってみたらほんとにしょっぱかったりして、まじいって笑って、そんなどうでもいいことを、大事にしたくて仕方ない。そう言ったら、レンは笑うだろうか。……また、泣くんだろうか。慣れてしまうことは簡単だし、いつかは慣れてゆくことなんだろうけど、何だかそれはもったいねェなと思うオレは、きっと貧乏性なんだろう。

「タ、カ」
「ん? おお」

 気がつけば、レンが部屋からこちらに顔を出している。どうした、と聞けば、遅かったから、と小さく続けられた。

「あーワリ、どの具取るかですっげー悩んでた」
「に、んじん、は」
「ちゃんと残してあるって」

 部屋に戻れば、今度は入れ違いにレンもキッチンに向かう。にんじんだらけのおかわりを前に、お前ほんとすきな、とまた笑う。つられてレンもふにゃ、と笑った。あの夏の日に初めて見た、笑顔。オレのいちばんすきな顔。やわらかいそれに、触れたいと、欲しいと思ったのはいつからだっただろう。

「なあ」
「へ?」
「…………何でもね」
「うえ、なに、」
「何でもねえって」

 不思議そうな顔をしたレンは、その後眉を下げて「変なの、」と続ける。口が裂けても言えねェことを言いそうになっていたことに気づいて、平静を装って目をカレーに向けた。

 ずっとこうしてられたらいいのにな。

 今の日々がいつか終わってしまうような、そのことば。そう思ってしまうのは、どこかでオレたちがそう思っているからかもしれない。この関係を終わりにしなければいけないことを、分かっているからかもしれない。オレたちが付き合ってることは周りにそう言えるモンでもねェし、言って歩くつもりもない。出来ねェことだってたくさんあるけど、オレはただレンが泣くことはしたくない。レンがすきだって気持ちがあれば、それでいい。いつか――いつかレンと離れることになっても、こいつがそう望むならそれでいい。ま、別れる気はさらさらねェんだけど。
 ――たとえばお前がどっか行っちまうとしても、オレは止めない。ただその時まで、時計は死ぬほどゆっくり進め、そんな風に思う。





「オレ、タカ、のこと、すき、だ」

 ベッドに潜りこんだ後、唐突にレンが言う。どうしたの、と聞かないのは、たぶん同じようなことを考えていたからじゃないだろうか。オレの肩口で頭をこすりつけるようにして、赤くなった顔を隠す。自分の言ったことに赤面してちゃ世話ねェ。背中にゆっくり腕を回して、あやすように叩いてやると、大きく息を吐く。

「……知ってる」
「う、」
「オレもすきだよ」
「……ふ、わ」
「……照れないでくださーい」
「てれて、ない」

 名前で呼び合うようになっても、ふとした瞬間にレンは付き合いたてみたいな反応をする。それを笑いながらも、すこし安心している自分がいる。背中を抱く腕にすこし力を入れて、それに応えるように発せられた自分の名前が、じんわりと耳に響く。
 明日も明後日も、こんな日ならいいと希う。小さく呟いた「おやすみ」は、閉じたまぶたの上にゆっくりと消えていった。





20110405/ビールとプリンとアベミハ
20200813/修正



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