彼らのみちゆき



 いつからだったか、二人が一緒に住みだしたのは知っていた。とうとう同棲かあ、思わず口に出すと、その言い方は何かしっくりこねェ、そう言って笑っていた。

「おい起きろー阿部ー」
「……ダメだ、こりゃ完全に潰れてるわ」
「どーする?」
「どーする、ってお前じゃん潰したの。責任とって連れてけよ」
「あ、オレ家連れてきますよ、」
「まじで? 頼める?」
「はい、先輩に迷惑かけられないですし」
「わりいな、オレらもこんな潰れるとは思ってなかったから」
「じゃあこれタクシー代」
「え、いいですよそんな」
「ばーか、顔立てさせろよ」
「張本人が何言ってんだか、」
「むしろお前が行くべきっしょ」
「いや、まじで大丈夫っす、タクシー代だけいただいてきます、すみません」
「じゃあ頼むな、栄口」

 なおも気にかけてくれる先輩をかわしつつタクシー乗り場に向かった。ふっと気が緩む。とりあえず左肩が重い。意識のない人間ってほんとに重いんだよなあ、引きずるようにして列に並ぶ。週末だからか、同じような状態のサラリーマンがぽつぽつ見える。
 夜中にごめんね、そう切り出してかいつまんで、つまりは阿部が潰れたと話をすれば、三橋はびっくりした様子だった。無理もない。電話を切ってすぐに住所が書かれたメールが送られてきて、それを頼りに栄口は運転手に指示を出した。
 小道が入り組んだ住宅街だったが、アパートの下まで出てきてくれた三橋を見つけるのは容易かった。

「栄口く、」
「おー、久しぶり、……って言ってる場合じゃないか。ごめんね、夜中に」
「ううん、平気、起きてた、から」

 風呂上りなのか、スウェットで迎えた三橋の頬は赤かった。栄口が料金を払っている間に、何とか阿部を起こそうと肩をゆさぶる。「全然起きねえなあこの兄ちゃん」、そう運転手に苦笑されれば、余計におろおろして「ごめんなさい」を繰り返した。謝罪すべき当人は夜風が車内に吹き込んだせいで身を縮め、なおも眠り続ける。酔っぱらいとはかくもいいご身分だ。

「………タカ、ヤ、」

 呼びかける、三橋の小さな声。

「タカ、起きて、起きよう、」
「………ん、」
「ね、……タカ、」

 …………あれ、なんか、

 一瞬の違和感は、三橋の苦戦ぶりにすぐかき消された。抱きかかえようにも阿部の方が体が大きい上に意識がなくては、ひとりで動かすには荷が重い。タクシー乗り場での苦労を思い出し、栄口も阿部の肩に手をかける。

「手伝うよ、」
「うお、ご、ごめんなさ、」
「何で謝るの、悪いのは阿部だって」
「あ、でも、」

 …………ああ、そうか、
 名前だ。

 阿部、と自分で呼んで気づいた。三橋が彼を名前で呼んでいることに。違和感はこれか、と納得して、阿部を引っ張り出す作業に戻る。どうにかこうにか車から降ろして、運転手に謝って、三人で階段をふらふら上る。とりあえずベッドに横たえて、二人でため息をついた。
 脱ぎ散らかしたままのスニーカーを片付けている間に、小さなテーブルの上にはお茶が用意された。つけっぱなしで飛び出したのだろうテレビでは、深夜のスポーツニュースがプロ野球のキャンプ前の様子を伝えている。
 春に引っ越しを手伝ったときにはなかったもの――たとえばふたつの座椅子だとか、それから微妙に変わったテーブルの配置だとか、違う大学のシラバスだとか、そういったものが、ここが彼らふたりの家なのだと示している。何だかこっちが恥ずかしくなるような、むずがゆい気持ちだった。

「飲み、っていうのは知ってたんだ」
「あ、うん、遅く、なるって」

 待ってたわけじゃないんだけど、そう言って三橋はノートパソコンを閉じた。提出の近い課題があるらしい。何があったかは聞かれなかった。それが何だかいたたまれなくて、栄口から知っていることを話した。先輩に囲まれて断れない雰囲気だったこと。途中から焼酎と日本酒しか飲んでなかったこと。日本酒、ダメなのに、ね。一通り話を聞いた三橋が、困ったように笑う。

「……名前で呼んでるんだ、阿部のこと」
「え、あ、オレ、阿部く、」

 一瞬目を丸くした三橋が、真っ赤になるまでにそう時間はかからなかった。慌てて阿部くん、と言い直す姿は、見ている方にも伝染する。さきほどのむずがゆさとあいまって、二人して顔を赤くして俯いてしまった。

「……べ、別に隠さなくてもいいのに」
「あ、でも、すごく最近、で、」
「そうなの?」
「………う、うん、」
「じゃあ慣れてかなきゃ」
「阿部君にも、同じこと、ゆわれる……」
「うわー言いそう、そんなすぐに出来ないよな」
「……でもね、オレ、が、言ったことだから、」
「うん、そっか」

 そういえば、阿部は三橋のことをどう呼んでいただろう、と思い返す。大学では三橋、としか呼んでいる記憶しかない。少なくとも栄口の前では。……ふたりでいる時だけなのか、阿部もまだ照れくさいのか、確認したくても当の本人はすやすやと寝ているだけだった。

「……あ、やばっ終電!」

 ひとしきり話して携帯を見れば、日付が変わって大分経っていた。

「い、行っちゃった?」
「今行っちゃった、……どうすっかな」
「う、うち、泊まってく、」
「……いいの? 阿部怒んない?」

 せっかくふたりで住んでるのに。わざと意地悪く言うと、平気だよ、ほんとだよ、と必死に繰り返した。じゃあお言葉に甘えて、と座り直すと、三橋は風呂を勧めてくれた。外、寒かったでしょう、そう言って。
 風呂を借りて汗を流すと、酔いは完全に醒めた。洗濯機の上に真新しいタオルとたたまれたTシャツ、スウェットが置いてある。何となく、いつも阿部が三橋に、三橋が阿部にしていることなんだろうと思った。
 居間に戻ると三橋はいなかった。「三橋?」髪を拭きながらドア続きの寝室をのぞくと、二人が見えた。眠る阿部と、ベッドサイドでそれを見つめる三橋。阿部は二人で運んで寝かせたままの格好から、きちんと布団をかけられて寝息を立てている。その阿部の髪を、三橋の指がなでた。梳くように、いとおしむように、ゆっくりとなでた。目を細めて、微笑む。小さく口が動いた。

 タカヤ。
 隆也。

 何だか、見てはいけないもののような気がした。

「……みはし、」

 肩をびくつかせて三橋が振り向く。悪戯が見つかった子どものような、「どうしよう」という赤い顔で。それがおかしくて、栄口は思わず笑った。

「ごめん、取り込み中?」
「う、え、全然、平気!」
「ならいいけど……ありがと、お風呂」
「あ、じゃあ、オレ、も、そっち行く」

 淹れてもらったカフェオレをゆっくりと飲む。阿部は飲まないだろう、すこし甘いカフェオレ。気温が下がる深夜への、気遣いが嬉しかった。時折外を走る車の音が響く以外は、静かな夜だった。
 さっき、三橋に言わなかったことがあった。阿部がここまで潰れた理由を、栄口は知っていた。

 なあ阿部、お前のカノジョってさあ、

 つまりはこの一言に尽きる訳である。部内では時々彼女やらそれに関わるようなことを面白おかしく言わされる向きがあった。それ自体はありがちな構図で、だが阿部にとっては煩わしいだけのものであっただろう。三橋との関係はただでさえ周りに言いにくい。
 阿部はめったに三橋の話をしない。高校の同級生で、バッテリーを組んでいて、コントロールがよくて、今も投げていて、そんな雑誌に載るレベルの話しかしない。――彼らの関係をきちんと知っているのは、栄口を含めたあの10人だけだろう。
 しかし阿部の言動は、特定の相手がいると伝えてあまりある。それが三橋だとはまさか思われていないだろうが、何せ1年という立場で先輩の目はかわせない。あの阿部がベタボレのカノジョ。そこで何も言わなかったために、今彼は潰れているのだ。もっとも、何か言っても同じ結果だっただろう。名誉の負傷、とはとても言えないが。

「……起きないね、阿部」
「い、一回寝ちゃうと、あんまり、起きないんだ、」
「そうだったっけ?」
「その分、起きるのは、早いんだよ」

 来客用の布団に二人で横になる。不可抗力だからな、栄口はベッドの阿部を見やる。三橋は占領されたそこにもぐりこむつもりはないらしく、合宿のように雑魚寝を提案してきた。早起きであるとされた阿部が、この光景を見てどうするかが恐ろしくもあり、楽しみでもあった。やっぱ怒るかなあ、そう言えば、阿部君が怒られる方だ、と笑った。栄口君に送ってもらったって、たぶん覚えてないから、ちゃんと、怒らない、と。そいつは見物だなあ、と無責任に思った。

「三橋は、」
「う、?」

 暗くした部屋で、独り言のように聞いた。

「三橋は、さあ、」
「うん、」
「……やっぱ、何でもない」
「き、気になるよ、そんな」
「寝よっか、三橋」
「み、水谷君に、言っちゃうよ、」
「ふふ、何で水谷が出てくるの」

 ……三橋はさ、何で阿部が潰れたか、知ってるんでしょ?

 きっと阿部は言わないし、そんな素振りも見せないと思うんだけど。小さくつぶやいた最後の質問に、返事は求めなかった。突っ込んだことを聞いている自覚もあった。だが寝息はきっと阿部のもので、隣の肩がぴくっと揺れたから、聞こえてはいたのだろう。すこし間をおいて、三橋は内緒だよ、と笑った。

「……阿部君が、オレが気にしないように、い、言わない、だけだから、」
「……うん、」
「だから、オレも、聞かないって、決めてる」
「……阿部は幸せ者だなあ」
「お、オレも、しあわせ、」
「……それは起きたら言ってあげなよ、」

 のろけ禁止ー。冗談めかして、栄口は会話を途切れさせた。
 ふたりがお互いを想うだけではいけないのだろうか。こんなにもやさしい苦しみがあるのだろうか。ふたりにとってどうしようもないことが、そうやってふたりを傷つけ続ける。それでも、彼らは離れることを選ばない。そうしてふたりでいることを「しあわせ」だと言う。何度そうやって思い知らされて、岐路に立とうともきっと――それはわがままでも諦めでも開き直りでもなく、強さなのだと思う。少なくとも、栄口はそう思いたかった。
 ここまでくるのに、どれだけ時間がかかったのだろう。ふたりでいることを選べるようになるまで、どれだけぶつかり合って、泣いて、その度に抱き合ったのだろう。訳もなく、泣きそうになった。

「な、三橋」
「うん?」
「オレは、お前ら二人ともすきだよ」
「さ、かえぐちく、」
「だから、大丈夫」

 三橋が鼻をすする。泣きそうになるのを、こらえているようだった。
 朝、阿部が起きなかったら顔に落書きしようか、そう言うと、しばしの沈黙が流れる。そのうち、ふひっ、という、いつもの彼の声が聞こえた。どんな想像してんの、とからかいながら、重くなってきたまぶたを閉じる。
 さあ、明日阿部はどんな顔をするだろう。





20101211/寝落ちの阿部と栄口君と三橋
20200813/修正



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