30グラムの幸福論



「16日、空いてるか?」

 阿部から電話がかかってきたのは、一週間ほど前のことだった。

「よ、夜、になっちゃう、けど、……あの、部活、あって」
「いいよ、おれもだし、」
「そ、か」
「……じゃあ、部活終わったら連絡して」
「うん、」

 西浦高校を卒業し、別々の大学に入って一ヶ月。三橋も阿部も当たり前のように野球を続けていた。休みはあれどあまり重なることはなく、加えて授業の多さに追われ、なかなか会うことは叶わなかった。
 先の春休みに阿部は一人暮らしを始めていた。部活が終わってから、何度か訪ねたことがある。それぐらいしか一緒にいられる時間がなかった。毎日会えていた高校とは違う環境。元々多くを望める関係でもないから、足りないとは言えるはずもなかった。
 言えないだけで、顔が見えないだけで、勝手に不安は積もっていった。入学直後は続いていたメールも、少しずつ間隔が空く。忙しい、大変、そんな言葉は言うのも聞くのも嫌だった。それでも、その言葉が二人を包んでいた。
 そんな阿部が、家に来いと言う。部屋のカレンダーにぐりぐりと丸をつけて、着信履歴を見て、三橋は嬉しそうに笑う。この間会ったのはいつだっけ、話すことがいっぱいある、どれから話せばいいだろう、変な教授の授業の話、野球部の話、食堂の新しいメニューの話、……阿部の、顔が見たい。早く、見たい。一週間がやけに遅い気がした。もういくつ寝ると、なんてお正月みたいなことを思った。





 短針は九時と十時の間。息を弾ませたまま駅に着くと、阿部がそこにいた。表情がどこか硬い。三橋はそれに気づいたが、あえて口にしなかった。せっかく会えたのに、変なことを言って煩わせたくなかった。

「……ひ、さしぶり」
「だな、つかそれ置いてくりゃよかったのに」
「い、いいんだ、」

 それ、と指差されたバッグを肩に掛け直す。家に置いてくる考えなどなかった。部活が終わって、着替えもそこそこに大学を飛びだしたのだから。まだ火照る頬に、阿部の手が触れる。不意に、ぐに、と引っ張られた。意地の悪い笑みを浮かべて阿部が言う。

「い、ひゃい、」
「お前急ぎすぎ」
「だって、」
「だっても何もこけたらどうすんだっていつも言ってンだろ」
「転ばない、よ!」
「改札出てくるとこから見てたけど超あぶなっかしかったぞ」

 オレも急いだけどさ。そう続けて手を離す阿部が、何だか子どもっぽく見えた。さっきの表情は、気にしないことにした。阿部はやっぱり阿部で、いつものように三橋を見ていてくれる。それでいい、と思えた。
 アパートまでの道は、まだ覚えきれていない。曲がり角の度に阿部にどっちだと聞かれ、おどおどしながら答える。人通りの少ない道に出て、どちらともなく手をつないだ。

「……あの、ね、」
「ん?」
「会いたかった、」
「……オレも、」
「だから、オレ、」
「だからデカイ荷物持ったまんま来たんだろ?」

 簡単な夕食を済ませ、一息ついたところで三橋は口を開く。もっともっと、言いたいことがある、それでも何より大きかったのはその気持ちだった。頭を撫でられ、引き寄せられるままに阿部と抱き合う。額に、頬に、目尻に、くちびるに、阿部のそれが触れ、熱を持つ。こころが、少しずつ満たされてゆくような気がした。

「……みはし、」
「ん、……なに、」
「……話があるんだ、」

 いつもよりもすこし、低い声だった。阿部の目を見る。駅で見た時と、同じ顔。気づかないふりをしていたのに、どうしてそんな顔をするんだろう。阿部くん、名を呼ぼうとした瞬間にテーブルの上で阿部の携帯が震える。ディスプレイを見た阿部が慌てたように立ち上がった。大学の先輩からだ、そう言って。

「ごめん、ちょっと待ってて、すぐ戻っから」
「あ、う、うん、」

 そう言い残され、キッチンに続くドアが閉められた。
 ……よっぽど大事な電話なんだろう、きっと部活とかの、……オレの知らない、ひとからの。ドアの向こうから小さく聞こえる阿部の声が、何だかとても遠く感じた。

 ……阿部君、何だかヘンだ。

 会ってから、ほんとうは電話したときから何となく感じていた、違和感。口にした途端に、それは嫌な現実感を伴って三橋に襲いかかる。
 恐かった。同じ場所にいられないことが、恐く思えた。ひとつの気持ちに頼ることが、こんなに不安にさせる。足元が見えないような、どこかに飛んでいってしまいそうな、――そんなものだったのだろうか。阿部を想う気持ちは。
 もし、……もしも、終わってしまったら。
 もう続けられない、そう言われたら。
 ぎゅっと目をつぶると、耐えきれずに涙が落ちた。

「、おい!」

 ドアを開けた阿部がぎょっとした顔で三橋の肩を揺さぶる。ベッドに投げられた携帯がぼふ、と音を立てて跳ねた。その音を聞きながら、ぼうっとした頭で泣き続ける。何も言えない。言えやしない。見かねた阿部はぎゅう、と音がしそうなほどに三橋を抱きしめた。

「三橋、みはし、」
「あ、べく、っう、」
「ちょ、何で泣いてんだお前ほんとに、」

 腹痛いのか、阿部はとんちんかんなことを言って狼狽している。勝手に泣いているだけの自分に、どうしてこうも優しく触れてくれるのだろう。額同士をこつん、とぶつけて、阿部が顔を覗き込んでくる。本当に心配そうな、それこそ泣きそうな顔で。

「だ、て、阿部く、ヘンだ、」
「変って、何が」
「っなんか、こわい、顔、す、るし、……は、話、て、言うから、」
「うん」
「オレ、オレね、別れようって、言われるんだって、思ったら、」
「はあ?」
「全然、会えな、いし、きょ、うも、こんなだし、っだから、」

 そこまで言って、頭をひっぱたかれた。「いっ、」痛い、言う暇もなく怒声が飛ぶ。

「何っでそうやって勝手に考え込んで泣くんだばか!」
「だ、って」
「だっても何もねェよこのばか!」
「ばっ、ばか、って!」
「誕生日だろうが、お前! 明日!」
「……えっ、」

 部屋に掛けられたカレンダーを見る。阿部を見る。もう一度カレンダーを見る。
 ……明日は、5がつ、17にちだ。オレの、誕生日、だ。再び阿部を見ると、すこし顔が赤い。悪戯が見つかったときの子どものような、そんな顔をしている。

「一日はええけど、0時ちょうどに、ちゃんと会って言いたかったんだ」
「あべく、」
「つか会いたかったんだ、マジでどうにかなるかと思った、」

 なのにお前泣いてるし。そう言って阿部は続けた。さっきの電話は今組んでいる先輩からで、元々部活の件で今日電話すると言われていたこと。まさかあんなタイミングとは思わなかったから、焦ったこと。ごめんな、不安にさせたな、指の腹で三橋の涙を拭う。そんなの今の一瞬で消えてしまった。独り相撲というレベルではない事態に、涙も引っ込んだ。目が合わせられず下を向く。

「……ご、ごめんなさい、オレ」
「……はずかしー奴、」

 頭をぐしゃぐしゃとかき回される。ぐらぐらする視界で阿部を捉えて、ようやく反論した。

「あ、阿部君、だって、今日、紛らわしい顔、した」
「……あー、それは、な、」

 阿部は口ごもる。ふっと三橋から目をそらし立ち上がると、引き出しから小さな袋を取り出してきた。

「……先にこれ、渡す、」
「な、なに?」
「誕生日プレゼント」
「おお、」

 受け取った袋に目を輝かせた三橋に、「期待すんなよ」と阿部は声をかける。さらに透明な袋でラッピングされて出てきたのは、

「キーホルダー、だ!」

 それはいくつかの鍵を束に、ベルト穴にかけて持ち歩けるタイプのもの。全体が銀色のシンプルなデザインは、使いやすさを重視する阿部らしい選択だろう。袋を開けて取り出すと、少し重みを感じた。

「……あれ、」

 既にひとつ、鍵がぶら下がっている。

「……かぎ、どこ、の」
「ここの、」

 どく、と心臓が鳴ったのが分かった。阿部の、家の鍵。それが意味するものは、ひとつだった。

「いつでも来ていいから、つか来い、そんで、」

 ああ、やっと涙が止まったのに。鍵が、前が、見えなくなる。

「そんで、夏休みになったら、一緒に住もう」

 キーホルダーを握り締めて、阿部に飛びついた。あまりに勢いがあったせいで、ラグの上に二人して倒れ込む。……ばか、そう言う阿部の声が、ひどく優しい。何もいらなかった。握り締めた手から、金属に熱が伝わる。

「夏休み入ったら、のんびり荷物運んでさ、……ゆっくり慣れていけばいいんじゃねぇの」
「……いい、の、」
「いいよ」
「……だ、って」
「何もねェよ?」
「……じゃあ、じゃあ、もう、「また今度」って、言わなく、なるのか」
「そうだな、」
「……ほんとに、いいの、」
「お前がいいなら、いいよ」

 見つめ合って、笑って、キスをする。高校の時は、「また明日」が日常だった。明日会えない理由がなかった。大学に入って、「また今度」と言うようになった。次にいつ見られるか分からない背中を、何度か見送った。阿部が家を出ているから、一緒にも帰れなかった。自転車で帰っていた頃の自分たちさえ、うらやましく思った。

「……オレが今日変だったのはコレのせい」
「そ、うなの、」
「お前な、断られたらどうしようとか考えたんだぞこっちは」

 抱き合って寝転がったまま、睦言を、キスを繰り返す。今までの空気をほぐすかのように、何度も頬を寄せ合って、名を呼び合う。
 硬い表情も、低い声も、今となってはひどく愛おしいものだった。時折鳴る金属音が、温く部屋に響く。
 やっと見つけた宝物のように、三橋はそれを離さなかった。

「たぶん三橋に告った時ぐらい緊張したな」
「ふは、っ」
「笑うなよ」
「う、……っ」
「……分かった、笑うか泣くかどっちかにしろ」
「っあべくん、」
「ん?」
「あ、りがとう」
「……どーいたしまして」

 ベッドの上で再び携帯が震えた。阿部が起きあがって取り上げる。さっきの今でびくつく三橋に、笑ってディスプレイを見せた。5月17日0:00。スケジュールには、「三橋廉 誕生日」の文字。几帳面だね、精一杯の強がりでそう言うと、お前のことだけ、と返されて、何も言えなくなる。

「みはし、」
「う、?」
「誕生日、おめでとう」

 ぐい、と三橋を抱き起こすと、阿部は冷蔵庫から小さな箱を持ってきた。覗き込んで見えたのは、色とりどりのケーキ。今日は好きなだけ食え、でも明日からちゃんと体重管理しろよ、あまりに彼らしい言葉に、また笑った。幸せだ、と一言で言ってしまうのは、何だかもったいない気がした。





「いちばんだ、」

 ショートケーキを頬張りつつも、一生懸命に話す。口元にクリーム付いてんぞ、阿部はそんな三橋を見ながら自分もチーズケーキを口に運ぶ。

「いちばん最初に、おめでとうって、言ってくれたのが、阿部君でね」
「おう、」
「ほんとに、ほんとに、うれしい、んだ」
「そいつはどうも」
「ほんとだ、っ」
「分かってるよ」
「ほんと、?」
「……そーか、そんなにウメボシしてほしいか」
「うお、やだっ!」

 他愛もなくじゃれ合いながら、夜は更けてゆく。
 また、すぐに夏が来る。二人の世界も、また少しだけ変わる。





20100517/緊張する阿部とみは誕2010
20200813/修正



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