たとえば染まりゆくとして



 ふとスコアブックから目を上げた。部屋が暗い。ああ降るって言ってたっけ、そう思い返して窓の外を見る。成人式とセンター試験当日は雪が降るとはよく言われる話だが、年明けからこちらは雨すら降っていなかった。

 ほんとに音しねェモンなんだな、

 窓を開ければ思ったより大きな粒がはらはらと落ちてゆく。雪が降ってくるのではなく、地上が雪の中を上昇してゆくのだ、そう言っていたのは誰だったか。ずっと前に読んだ一節を思い返して、しばらく空を見上げる。くすんだ色をしたそこから、雪は絶え間なく阿部の顔に舞っては溶けた。
 三橋は部活だった。大学が違えば練習日が異なるのも自然で、たまたま二人のそれが合わなかっただけのことだ。雨は朝から降っていたが室内練習があるらしく、慌ただしく出て行くのを見送った。持ち主に忘れられたマフラーをぐるぐる巻いてやれば、嬉しそうに笑う。
 夕飯は昨日のシチューがまだあるし、風呂掃除はしたし、この天気だから部屋干しの洗濯物もまだ乾かない。取り立ててやることがなくなった阿部は、結局習慣になっているスコアのチェックをしていたのだった。





 淹れ直したコーヒーを口に含む。コーヒーメーカーを買うほどでもないが、インスタントの消費量は結構激しい。いつからブラックで飲めるようになったのだろう。苦味は嫌いではないけれど、進んで飲もうともしなかった。あいつはまだカフェオレなんだけどなあ、そんなことを思えば携帯が鳴る。噂をすれば三橋である。

「レン?」
「あ、うん、」
「駅着いたのか」
「うん、今改札、」
「じゃあ迎えに行くから」
「だいじょうぶ、だよ」
「や、行く、」

 こけるかもしんねェだろ、雪だぞ雪。立ち上がりながらそう言うと、向こうで三橋がふっと笑ったのが分かった。「レン?」クローゼットから適当にジャケットを引っ張り出して名を呼ぶ。履き慣れたスニーカーを突っかけてドアを開ける。

「……ゆき、こんなに降ってたんだね、」
「ん?」
「電車の外が、真っ白だった」

 夕方前には積もり始めてたんだけど、そう返そうとして、やめた。
 野球が好きなのだ。たぶん今日も基礎トレやら何やらやって投げ込んできたのだろう。外も気にならないくらいに。あいつの捕手は自分だけだなんて考えはない。それでもその場所に自分がいない事実に、少しだけ焦れた。
 外に出ると既に街は白く、止まっている車にはうっすら積もってさえいた。相変わらず曇った空では今が何時なのかも分かりにくい。阿部は時間を確認すると、少し早足で駅へ向かった。思ったより寒いこと、積雪が早いこと、風通しのいい駅、たぶん電車内で暑いからと外したきりであろうマフラー、それから、早く来ないかと待つ三橋の顔。雪で重くなった傘をさして、ひたすら歩いた。
 コンビニで待っているという甘い考えを予想通りに裏切って、三橋は駅の階段近くで突っ立っていた。まっしろだ、そう笑って阿部のジャケットについた雪をはらう。赤くなった頬が際立って見えた。並んで歩き出すと、三橋は白い息を吐きながら電車の窓から見えた雪の話をした。最初は雨で、それからみぞれみたいになって、いつの間にか窓が白っぽくなって、それを見ていたら乗り過ごしたという。あまりに彼らしい行動に、阿部は耐えきれずに吹き出した。

「おま、何ソレ、」
「だ、だって雪だってなって、気がついたら」
「そりゃあんま降んねェけどさ、でも普通気づくだろー」
「も、いいっ」

 ぷいとそっぽを向く三橋の頭をがしがしと撫でた。傘がぶつかって雪が落ちる。はいはい、そう言う阿部と視線がぶつかると、仕方ないなあ、といった風に笑う。どうやら彼の中で、雪は重要なものらしい。足を取られないよういつもよりゆっくりと、視線を落として歩いた。

「……はつゆきだね、」
「あ? お前帰ったときあっち降ってたんじゃねェの、」

 確か年末に帰省したとき、雪景色を送ってきたはずだ。埼玉は寒いだけだよ、そんな風に返した記憶もある。そうじゃなくて、と三橋は続けた。

「タカと、見る、はつゆきって、こと」

 ……こういうこと平気で言うんだもんな。オレが好きだとか何だ言うとそれだけで顔真っ赤にするくせに。当の本人は傘をくるくると回して雪が舞うのを楽しんでいる。どうやら相当機嫌がいいらしい。こんなことを言う程度には。というよりも、浮かれているというのが正しいか。
 不意に三橋の傘が離れた。見ると、道路脇に積もった雪を踏んでいる。まだ柔らかいそれは彼のスニーカーの跡をくっきりと残す。スポーツバッグを肩にかけた危なっかしい体勢で、それを繰り返している。ひとしきり満足すると、次の雪の塊へと向かう。びっくりするくらいの笑顔で。そんな調子だから、一向に家には近づかない。

「……お前なあ、何でわざわざ雪踏むの」
「うえっ、」

 あぶねェだろうが、相変わらずさくさくと音をさせる三橋の腕を取る。その時、彼が浮かれている理由に思い至った。ああそういうこと、頬が赤いのは寒いからだけじゃねえわけだ。そりゃ笑うわけだ。乗り過ごすわけだ。


 ゆき。
 ゆき、か。
 雪、だもんなあ。
 うれしいんだ。


「レン、」
「な、なあに、」
「三十分だけだぞ」
「え、うん、」
「寒いし、腹減ったし、」
「うん、」
「ちゃっちゃと雪だるまでも何でも作れ」
「お、おうっ」

 薄暗くなった公園には子どもの姿もなく、その中で三橋は真っ赤な手で小さな雪だるまを作る。阿部はポケットに手を突っ込んだままそれを見守った。大学生が二人して何やってんだろうな、寒い時に冷たいモンによく触るよなあ、そういえば高校の時も雪だっつって田島と一緒に飛びだしていってたっけ、そんなことを思う。
 親と離れて暮らして、二人きりで暮らして、家事をこなして、大きい買い物も出来るようになって、コーヒーを飲めるようになって、まるでオトナになったみたいな顔をしていた。それが雪ひとつでこんなにもはしゃぐ。でもなくしてはいけない気持ちのような気がした。三橋はたぶん、なくさないだろうなと思った。
 小さい雪玉がべしっと当たる。足、腹、はっと気付いた時には阿部の頭に小さな衝撃が走る。目線を落とせばしたり顔が見えた。てンめェこのやろ、負けじと赤い頬めがけて投げ返した。勢いのあるそれはきれいに三橋の顔に当たったのに、阿部の顔にも雪玉は命中する。相変わらずコントロールはいいな、そんなことを思った。難しいコト考えんのはやめだ。


 浮かれてンのはオレも一緒だ。
 たかが雪で、されど雪で。


「やっぱあっちの枝使った方がいいか」
「あ、あんまり変わらない、」
「ばっか! 変わるだろホラよく見ろってこれ、」
(……か、変わらない)

 最後まで阿部が自分の作る雪だるまの顔つきにこだわったために、家に着くと予定から大分過ぎていた。とにかく体は冷えきっていて、温めたシチューは勢いよく消え、結局足りずにインスタントラーメンを食べた。食後に阿部はやはり温かいコーヒーを飲み、三橋はカフェオレを飲む。いつもと変わらない風景だった。
 たぶん今夜いっぱい雪は降り続けるだろう。明日雪だるま見に行こうね、寝る間際まで三橋はその話題を引っ張った。
 公園に残したふたつの雪だるまは、溶けきるまでずっと同じ場所にあったらしい。





20100207/東京初雪とアベミハ
20200813/修正



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