レジ袋とエスケープ



「甲子園終わると急に涼しくなるよなァ、」

 まるで一緒に夏が行っちまったみたいに。そう思ったが、あえて言わなかった。今年も夏が終わる。憧れの舞台に立った彼らの二週間を思うと、どうしてもあの頃を思い出す。
 大学に入ってしばらく経っても、今日試合があったかのような記憶がよみがえる。真っ青な空の色、うだるような暑さ、それすらも忘れたマウンド、二度と出会えない高揚、それから、

「涼しい、ね、」

 アイスでも買いに行くか、そう言った瞬間目を輝かせた同居人が、小さくうなずく。
 この夏、一緒に暮らそうともちかけたのは阿部だった。長い夏休みの間、のんびり荷物運んで、ゆっくり慣れていけばいいんじゃねェの、時折泊まりに来ていた三橋にそう言うと、泣いてるのか笑ってるのか分からない顔をして抱きついてきた。

 もう「また今度」って言わなくていいんだね、そうだな、……ほんとに、いいの、いいよ、

 大学入学を機に始めた一人暮らしが、暑さとともに少し騒がしくなる。お互い部活やバイトや課題に追われながら、二人でいる時間を見つけていった。帰ると誰かがいてくれる、というのは単純に嬉しかった。ましてそれが三橋なら、言うことはなかった。電話よりメールより、直に話して触れることができる。お互いのいる場所が違っても、寂しさを感じる頻度は減っていった。
 今日は久々にのんびりできる夜で、さっきまで遅めの夕飯を食べていたところだ。

「う、」
「ん?」

 一瞬触れた熱を逃がさないよう、手をつなぐ。何度もしてきたことなのに、まだ慣れないらしい。緊張した指先が、ゆっくりとこちらに絡まるのを待った。体温を分け合うような呼吸。朝練での瞑想に似ていた。西浦での日々は、まだそうやって確かに息づいている。
 わざと顔色をうかがうと、三橋は懸命に平静を保とうとしているらしかった。

「……う、ううん、」
「変なヤツ、」

 歩いて10分もかからない帰り道を、ゆっくりと進む。蝉に混じって鈴虫の鳴き声が聞こえ始める。日が落ちれば、肌寒さを覚えた。そろそろパーカー出さないとな、そんな会話で、秋が近づいているのを感じる。
 オレが持つ、そう言って聞かなかったレジ袋を揺らして、三橋が不意に笑った。

「何?」
「あ、えと、う、」
「焦んなって、ばか」
「あ、あべく、」
「大丈夫だから、」

 途端にしどろもどろになる様子は、高校時代から変わらない。
 初めはいらつきさえ覚えたそのたどたどしさは、いつの間にか気にならなくなった。待てるようになった、というのが正解だろうか。その拙さは年相応とは言えないかもしれない。けれど、三橋は一生懸命に考えて話す。何かを伝えようとする。それが分かっていれば十分だった。
 つないだ手を揺らしながら、阿部は三橋の言葉を待つ。

「……あ、あのね、」
「うん、」
「う、うれしいな、って」

 普段、あんまりできないから、

 握る手の力が、少し強くなった。やっぱり同じこと考えてンだな、と阿部は笑う。
 そういえば、こんな風に手をつないで歩いたのは久しぶりだ。夏休みとはいえ部活はあるしバイトも忙しい。二人で出かけたとしても手をつなぐことはほとんどない。恋人らしいふるまいは、外ではなかなかできないことの方が多い。それはたぶんこの先もそうは望めないもので、三橋も同じように感じていたのだろう。闇にまぎれるように、でも確かに、熱を与え合う。

「……今だけ、な」
「いいよ」
「ん?」
「今、できてるから、いい、」

「……ごめん、」
「……どうして?」

 謝るつもりはなかった。たぶん、本当に口をついて出た言葉だった。
 守れなくて、堂々とできなくて、ごめん、なんて。

 付き合い始めて時が経つにつれ、ただ二人でいることしかできないのだと思い知った。何で好きになってしまったんだろう、そう考えた時期もあった。結局、理由など見つからなかった。ただ阿部が三橋を大切にして、三橋が阿部を大事に思っていることが事実としてそこにある。
 別に未来がないわけではない。ずっと続くものでもない。何となく分かっていた。形のあるものは何も残せなくて、お互いの気持ちを信じていくしかできない。だから、せめてそのときまで一緒にいようと思った。今この瞬間だけでもよかった。阿部が三橋をすきで、三橋も阿部をすきでいる瞬間があればよかった。こんな風にコンビニから家までの数分を、愛しく感じるくらいに。
 さわさわと街路樹が揺れた。雲に隠れていた月は満ち始めていて、街灯が少ない道を照らす。つないだ手が、先ほどより見やすくなる。それに連なって、きゅ、と手を握られた。オレたち、手つないでるんだよ、月に向かってそう主張しているように見えた。
 曲がり角が近づく。深夜の散歩が終わりに近づく。まだ帰りたくない。その理由はあたたかな左手にあった。

「……あべ、くん?」

 何も言わない阿部を見つめて、三橋が名を呼ぶ。
 右に曲がれば家はすぐそこだ。今更迷うような距離ではない。少し立ち止まった後、阿部は三橋の手を引いて左に曲がる。う、えっ、三橋が変な声を出して歩調を合わせてきた。

「ど、どこいくの、」
「角の公園」
「なん、」
「遠回りしてアイス食ってから帰ろうぜ」
「ほ、んと?」
「ほんと」
「ほんとに、いいの、か」
「いいよ、」

 あの時とそっくり同じ会話だった。
 本当はまだ手を離したくないなんて、恥ずかしくて言えるわけがなかった。早足になるのが自分でも分かる。
 暗くてよかった。心拍は上がるし耳まで熱い、何より顔が熱い。つないだ手から三橋にも伝わっているだろう。我ながらガキっぽいことしてんな、と思いながら確かな熱を握り返す。付き合いだした頃に戻ったような気がした。
 オレたちは大丈夫だ、何度だって確かめ合えばいい。二人にとってのほんとうを、探していればいい。手をつなぐだけで、世界はいつでも変えてゆける。

「オ、オレも、離したくなかった、」

 とりあえず、そんなことを言った三橋を思いっきり抱きしめてやる。
 公園のベンチで蓋を開けると、アイスはだいぶ溶けていた。何だまだ夏じゃん、そう言うと三橋は夏だね、と応える。さっきまで涼しいと言っていたくせにおかしくて、赤い顔で二人見合って笑った。
 三橋がくしゃみするまで、長い寄り道は続く。





20091201/おさんぽアベミハ
20200813/修正



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