スペクトルと夜



「カイセツコーシ?」
「回折格子。回る、折る、骨格の格、子どもの子。物理の実験でやったんだけど、って、そっちはまだやってねェか」
「うん、まだ、」

 そう言いながら阿部が見せてきたのは、小さく正方形に切られたセロファンのようなものだった。透明なそれはよく見ないとそこにあるかどうかすら危うい。公園の頼りない電灯の下では尚更だ。三橋は阿部に言われたとおりにマフラーや手袋の防寒具を身に着け、阿部自身もマフラーを巻いて、冬支度を始めている。
 夏の終わりに、二人はいわゆるお付き合い、というものを始めた。呼び方が変わるわけでも、バッテリーとしてのやり取りが変わるわけでもなかった。ただ何とはなしに、一緒に帰る機会が増えた。どちらかが、というより主に阿部がすこしだけ遠回りをして、たまに公園で座って話す。ファミレスに入れば長居してしまうし、何より食事はきちんと摂った方がいいとする互いの見解だった。隠れて手を繋いだり、キスをしたり、果ては体温を確かめ合うようなこともしているのに、何て健全なのだろう、と阿部は思う。
 手袋を外した手に小さな回折格子を乗せられ、三橋はためつすがめつそれを見る。どうやってもセロファンにしか見えない。しかも物理だ。難しい話だ。何故阿部はこんな話をするのだろうか。……正直に言って、三橋の心中はそれどころではないというのに。

「その、かいせつこうし、って何?」
「えっとな、物理の授業で今日やったんだけど、光の反射とか何とか……要は光って波なんだと」
「波? 光が?」
「そう。まあその辺はオレもよく分かってねンだけど」
「でも、阿部君、前に物理の本、読んでたのに」
「あれはまた別。投球理論とかじゃなきゃキョーミねェ」
「そ、か」

 その光が波だということを証明するのがその回折格子、というものらしい。難しい話は置いといて、これでその外灯見てみ? 促されてセロファンを目に近づけ、外灯を見る。と、

「わ、何これ、」
「ちょっとスゲーだろ」

 セロファン――回折格子越しに見る外灯は、様々な色が並んでいるように見えた。まるで電球が連なっている、小さなイルミネーションだ。

「すごい、何か、光が、並んでいっぱい見える!」
「それが波ってこと。赤外線とか紫外線とか、そーゆーのも関係あるっつってたかな」
「虹、みたい」
「そうそう、そんな感じ! 見えんだろ?」

 すごいすごい、を連発してこちらへ向けられた顔を、阿部は両手でふわりと包んだ。一瞬で三橋の目に緊張が走る。触れるだけのキスをして顔を離せば、頬を包む手がじわりと熱くなった。自分も顔が火照っているのが分かる。そのまま手を重ねれば、びくついたように肩が揺れる。せいいっぱいの抵抗のように、三橋が言う。

「……きゅ、急に、する、な」
「何か、したくなった」
「阿部く、は、いつも、急」
「そうか?」

 もっとしたいんだけど、と阿部が言いかけた矢先に、話し声が聞こえた。三橋はとっさに手を離して、身を固くする。犬の散歩だろう、親子が笑いながら歩いてくる。赤い頬に気付かれないだろうか、手を繋いでいたのを、何よりさっきのキスを見られてはいないだろうか。そんなことばかりが頭をめぐる。白い息をふは、と吐き出すと「……大丈夫だって」三橋の思いを見透かしたかのように、阿部の声が優しく降ってきた。

「こんな暗いんだ、誰かがベンチに座ってるだけにしか見えねェよ」
「……うん、」

 不意に訪れた沈黙に、落ち葉がかさかさと音を立てた。暖冬と言われても冬は冬で、特に日が落ちれば寒さは足元からやってくる。
 足を縮めて、家族連れが公園を出てもなお、すこしうなだれた様子の三橋に、また阿部は声をかける。

「……回折格子、キレーだったろ」
「え、あ、うん、すごい、キラキラしてた」
「あれ見た時にさ、あー三橋にも見せてえなって思ったんだ。……何つうか、共有、っていうのか」
「共有、」

 機械のように言葉を繰り返す相手に苦笑しながら、阿部はまた手を重ねる。今度はゆっくりと握り返された。試合の度に重ねた手は、今は違う意味も併せ持つようになった。
 三橋の右手と、阿部の左手。今は、今だけは、ボールはいらない。

「最近、一緒のもの、一緒に見てェなって、思う」
「……阿部く、」
「……らしくねェのは分かってっからンな顔で見んな、まじで」

 空いた右手で顔を隠して、阿部が言う。耳まで赤い。ぎゅう、と握られた手が熱い。

 ――どうして。

 泣きたくなるのを懸命に抑えて、三橋は阿部の肩に頭を寄せた。ぶつけた、と言う方が正しいかもしれない。どうした、と呼びかけられても、とても応えられない。
 どうして、いつもそうやって、与えてくれるのだろう。オレがあげられるものなんて、何もないのに。

「………ごめん、ね」
「何が」
「オレ、何も、あげられ、て、ない、」

 いやそうでもねェと思うけど、と思いながら、阿部は三橋の話を聞く。これはたぶん、全部言わせた方がいいやつだ。

「……阿部君は、いつも、オレに、いっぱい、くれる、のに、……きょ、今日だって!」
「今日?」
「阿部君、誕生日、なのに、オレ、何も、……何もなくて、」
「誕生日、……ああ、だからか。今日何かずーっとそわそわしてたもんな」
「プレゼント、何がいいか、って、考えたんだけど……その、思い、つかなくて、」
「そんなん言ったらオレだって5月何もしてねえじゃん」
「そ、の、時は、つ、付き合って、なかった、」
「……まあ、確かに」
「ちゃんと、お祝い、したかった、のに、」

 既に潤み出したはちみつ色の瞳は、今にも涙を落としそうだ。三橋はこれでも必死に堪えている。そんなに泣くと目がとけちゃうからね、小さい頃、母親がそう言って慰めてくれたことを、ぼんやりと思いだす。
 うう、と小さくうなりながら泣くのを我慢する三橋を見て、阿部はすこし驚いていた。
 何もいらない、と本気で思っていた。別に取り立てて欲しいものはないし、家族にもたぶん今日は祝ってもらえるし、必要なものは最低限あればいいし、女子のように荷物を持ち歩くこともない。そもそも年をとるからどうだということにまず興味がない。興味があるのは野球に関わる全てで、次の練習試合がいつで、大会があって、練習メニューはどうで、三橋の調子がどうで、チームで、甲子園で勝ちたい、そんなことだけだ。どれも誕生日プレゼントでどうこう出来るものではない。だから、元よりそんな考えが浮かばなかったのだ。
 だが、三橋はそれをあげたかったと言う。

「オレはいいよ」
「……よく、ないよ、」
「今日の朝練の時も誕生会の時も、きちんとおめでとうって言ってくれたじゃん。それで十分」
「………」
「更に言えば、当日の今、三橋と一緒にいるからそれでいい」
「オ、レだって、阿部君といられれば、って思う、けど、」
「けど?」
「やっぱり、男同士、で、誰にも、言えない、し、」

 だから何か、何か欲しかった。
 何が正解なのか分からないし、それが例え、いつかなくなってしまうものでも。……もしかしたら、なくなってしまった方が、いいのかもしれないけれど。いつだって、どこかで終わりにしなければいけない関係なのだと、少なくとも三橋は思っているのだから。

「……オレさあ、」
「阿部く、?」
「回折格子、見せたいと思ったって言ったじゃん?」
「うん、」
「それでさ、三橋が笑ったじゃん、スゴイって。そん時、オレと同じこと言ってるって思ったんだ」
「そう、なのか」
「オレもスゲーって思ったもん。だから、そういうのがあればいいんじゃねェのかなって」
「……そーゆーの、って?」
「一緒のもの、一緒に見て、一緒にいればいいってこと」
「………いっしょ、」
「オレ、難しいこと言ってっか?」
「ううん、でも、……それで、いいの、」

 そんな、簡単なことで。
 言いかけて、やめた。簡単ではないと思ったからだ。たぶん、阿部も考えていることは同じなのだろう。一緒にいること――例えば、夜の公園にすら拒まれるような状況でも――ふたりでいることを、望んでくれる。一緒にいてほしいと、望まれている。一緒にいられると、信じてくれている。回折格子で見た外灯を思い返す。きらきらと揺れて、すこしずつ色を変えながらも、ずっとそこにある光のように。

「三橋がいつも一緒にいてくれるって、オレにはプレゼントにしか思えねえんだけど」

 モノより思い出、ってヤツだ、と、阿部は笑った。そうして三橋の目元を指で拭う。涙はいつの間にか乾いていて、そのまま掌で再び三橋の頬を包む。ひやりとした感覚に、思わず三橋は阿部の手に頬を寄せた。
 冷たくてごめんな、……冷たくないよ、すごい、今、あったかいから………こんなに、あったかかったんだ、ね。……お前のほっぺ、すげー熱い、……だって、嬉しい、から。

 まるで自分がプレゼントをもらったかのように、からだの真ん中から温かくなってゆく気がした。冬なのに、体が火照って、こそばゆくて、そして温かい。かさついたくちびるで何度もキスをして、夢中で阿部のマフラーに顔を埋めた。互いの背中に回った手で、探るように抱きしめ合う。

「……お前さ、リップクリームしねェとくちびる切れるぞ」
「あ、阿部君、だって」
「オレはいんだよこんなの」
「よくない、」
「…………あ、」

 お互いに見つめ合って、吹き出した。思いついたのは、きっと同じこと。

「クリスマス、リップクリーム交換しよ、」
「オレも思った、全部解決じゃん」

 薄暗い外灯の下で、二人して笑った。一緒に買いに行ってプレゼント交換しよう、と、小さな約束を交わす。そうしているうちに三橋の腹の虫が鳴り、阿部の携帯に「本日の主役さん、料理冷めちゃうんだけど」という小言の電話が入り、今日は解散ということになった。

「欲しいやつ、決めといて」
「はあ? リップってそんな種類あんの」
「ある、よ! ルリが、いっぱい持ってた、」
「ルリ……あー、あの桐青ン時の従妹か」

 自転車を押しながらのろのろと公園を出る。また明日、という言葉で名残惜しさを拭って、サドルに跨る。ばいばい、と手を振って走り去る三橋を見て、阿部はすこしほっとした。
 朝練で会ってから、三橋がどこか変だった原因が分かったからだ。変だったというか、焦っているというか、ともかくそれが解消出来て満足だった。次はいつ泊まりに来させるかなあ、そんなことを考えて、帰路につく。健全な男子高生のマフラーに埋まった口元は、試合中のように笑っていた。





20151211/エセ物理とあべ誕2015
20200810/修正



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