Them and about their world



「っつ、」
「あ、べくん、」
「んー、平気」

 歩幅がずれた。部活動終了後、一緒に部室へ向かう途中のこと。理由は分かっていたし、だからと言って何もできないことを、三橋は知っている。だから、彼が平気と言ったら、平気なのだ。

 腹減ったー、なあ今日部誌誰だ、練習試合の日程覚えてる人ー、あー来週三郷のどっかと! だから部誌誰だよ、え、泉着替えんの早くね? いや普通だろ、外に浜田いるから帰るわ、おー、あ、帰りコンビニ寄るけど、まじかオレも行く! オレも! あ、ちょっと待て田島、部誌お前じゃねェか! げえっバレた! 三橋早く行くぞ、花井が怒ってる! う、おおっ、

「……早く帰った方がいいと思うぞ」

 その声に三橋が振り返ると、既に着替えを終えた阿部はスポーツバッグを担ぐ。「へ?」「何かあんの?」「今日野球中継なくね?」矢継ぎ早に浴びせられた質問に、

「雨が降る、」

 それだけ言うと、お先、と阿部は部室から出ていった。1年だけとはいえ、狭い部室に男子高校生が10人となると、汗のにおいも声の大きさもそれなりのものだし、肩のぶつかり合いだって起こる。別にこれと言って明示してはいないが、着替え終わったら順に部室を出てゆくのが通例となっていた。

「え、何で?」
「さっき星見えてたじゃん」

 今さっき、真っ暗になるまでボールを追っていた。それは決して雲のせいではなく、単純に夜というだけだ。覚えたての地学の知識で、あれが何とかって星で、なんて話を歩きながらしたばかりだった。阿部は不要な嘘をつく人間ではないのは皆が分かっていたし、でも空には星が浮かんでいる。だからこそ、先ほどの言葉の真意がつかめなかった。不意に、部室に沈黙が落ちる。

「……阿部何かあったの」
「怒ってた、わけじゃねェよな?」
「あ、」
「?」
「あ、の、」
「どした三橋」

 半分ユニフォーム姿の三橋が、急に口を開いて、自然と部員の目は三橋に向けられる。相変わらず注目されることに慣れていない投手は、肩をびくつかせながら続けた。

「い、痛く、なるんだって、……その、あ、雨、降ると、」
「雨で、あ、膝? 膝が痛くなんの?」
「へー……そーゆーもん?」
「それって、古傷が痛むってヤツ?」
「ドラマとかでよくあるアレかー」
「あー! 夜ベッドから起きあがってうっ、みたいな?」
「そーそーそんな感じ!」

 一瞬で湧く部室に、三橋は再度びくつく。このままでは会話が脱線する、と判断した栄口が素早く助け船を出した。

「そいで、阿部もその、古傷がってやつなの?」
「う、うん、前に、聞いた、」

 阿部の膝は雨の日、というよりも気圧の変化に反応する、らしい。もう傷は治っているし、練習も通常にこなしているが、それでも時折、痛みを感じることがあるという。
 三橋のたどたどしい説明を聞いて、先ほどまでの騒ぎは一旦落ち着きを取り戻した。

「やっぱ大変なんかな」
「タイヘン、」

 タイヘン。タイヘン、なのか。
 阿部君は、タイヘンなのに、オレに何も言わない、のか。
 ……オレも、何も言わない、のか。

「オレらには分かんねェじゃん、そーゆー痛いのとか、どんくらいかとか」
「でもまあ雨降るたびに痛くなってたら嫌だろ」
「確かに、雨でも試合するし」
「治ってても気になンだろ、きっと」
「だよなァ」
「実際切れちゃうよかマシだったとは思うけどね」
「え、何これケガしないようにしよーってゆー話だったの?」
「水谷空気読めまじで!」
「何でオレだけ!」

 騒がしくなったはずの周りの声が小さく聞こえる。
 この話をした時の阿部の顔はどんなだったろう。手術したわけでもねェのに、ニンゲンのカラダってヘンってかスゲーよな、そう話した彼の顔は、

「三橋、お前まだ着替えてねェのか!」
「う、おっ」

 痺れを切らしたのか、阿部が勢いよく部室のドアを開ける。後ろの浜田は苦笑いで、今までの会話が全て筒抜けだったことを伝えてくる。まじかよお先って言ったじゃん! という大合唱を綺麗に無視して、阿部は散らかった三橋の荷物をスポーツバッグに詰め込む。
 ぽつ。窓に当たった水音が、数を増やし音を増やし雨となる。今ならまだ間に合うから急いで帰宅、という主将命令に、全員が慌てて帰路につく。

「うーわ、まじで降ってきてる」
「阿部スゲーな! きしょーよほーしになれんじゃん!」
「ばっかその前に全国制覇だろッ」
「じゃーまた明日ー」
「ばいばい!」
「あー腹減ったー!」
「早くしろよ濡れるー!」

 三橋なりに急いだつもりでも、あっという間に置いていかれた。部室には自分と、阿部しかいない。お先って言ったのに、何でまだいたんだろう、と考えて、動けなかった。……早く着替えろっての。その声で、自分を待っていてくれたのだ、と気づく。恥ずかしさと嬉しさと申し訳なさでやっと動けるようになって、急いでシャツを着る。
 お待たせ、と言う頃には本降りの雨に変わり、光りはしないものの雷鳴が遠く聞こえてくる。どうしたら間違えられンだよ、三橋のシャツのボタンのかけ違いを直しながら、阿部が窓の外を見やる。

「おー、降ってる降ってる、」
「ご、ごめんね、オレが、遅いから、」
「小降りになるまで待ちゃいいだろ。今出て風邪ひいたら意味ねェし」

 いわゆるゲリラ豪雨なら、三十分もしないうちに止むだろう。部室の真ん中に置かれたプラスチックのベンチに腰掛ける。隣にちょこん、と三橋が座ってきて、視線は右膝。無意識に膝に触れていた手を離すと、痛い、の、とかぼそい声。

「ん、まあ、雨降るのが分かるぐれーには」
「ど、どう、どんな、」
「……ぴりって、する感じ」
「ぴり?」
「そう、何つーか、引っ張られる、みたいな。あとは膝んトコが痺れたみたいになるくらい? だから空気変わると変なんなるんだよな、」

 なるくらい、ではない。疲労がたまれば痛みも増す。治りたての頃は階段を上るのでさえ痛みが走った。けれど、こいつにそんなこと言っても仕方ない。言ったらどうせ、ほら、そうやって泣きそうな顔をするから。

「……ンな顔すんなよ、」

 涙が落ちないように両頬をむに、と押し上げる。大きなひとみだ。ここからでも、三橋のひとみには阿部が映っているのが分かる。時折ひかりが揺れて、透明な膜がこぼれ落ちそうになる。うう、だかうえ、だか変な声を出して、たぶん、三橋は耐えている。泣かないように耐えている。

「だいじょうぶだから。別に引きずる訳でもねえし。空気変わるとくしゃみ出たりすんだろ、それと同じだから」

 半分は自分に言い聞かせた。はじめこそ引きずって歩いていたが、今日だって練習は滞りなくこなしたし、練習試合にも出るだろう。まだ先ではあるが、公式戦だって控えている。こんなところで弱音を吐いていられない。
 それなのに。

「……でも、ずっと、痛いの、か」

 それなのに、三橋はこうだ。いつだって、自分より阿部を優先しようとする。怪我をしてからは顕著だった。大阪に行った時も、夏祭りに行った時も、昨日も今日も、きっと明日も、完治した、と言わない限り、三橋はずっと気にし続けるだろう。言っても納得しないかもしれない。

『三年間怪我しねェよ。病気もしねェ。お前の出る試合は、全部キャッチャーやる』

 最初の約束を破ってしまったのは阿部なのだから。
 そこまで心配をかけておきながら、この上隠し事をするなんて、馬鹿らしいと思った。

「……一生、付き合ってく場合もあるってさ」
「……え、」
「言われた、病院で。その人によりけりだけどな」

 事実だった。人による、とは楽なことばだ。痛みや回復といった、本人にしか分からないことならば尚更だろう。阿部自身、回復の早さに安心もしたし、――こと故障に関してなら、榛名の気持ちも分からなくはない、というところまできた。彼が自分にしたことも、放った言葉も、球数の制限も、分からなくはない。まだ納得はできない、けれど。……この辺いい加減オレもひねくれてるよな、と思う。

「阿部君、」

 不意に、三橋の声が響く。いつものつっかえるような言い方ではない、まっすぐな声。同じようにまっすぐな目で阿部を見すえて、

「ん?」
「言ってね、」


 痛かったら、言ってね、


「……平気だって言ってンだろ、」

 声が震えたのが、自分でも分かった。雨音で気づかれなければいいと思ったが、無駄だろう。
 言ってどうなる、分からない痛みを、お前に押し付けろっていうのか。三橋は分かったふりをする奴ではない。そんなのは分かっている。だから、こんなもんを背負ってほしくはないのだ。
 三橋には、野球にひたむきでいてほしい。
 三橋は目をそらさない。そらしたら負けのような気がして、阿部もまた三橋を見る。

「……痛いのはオレだけでいいんだよ、」
「か、わり、には、ならない、……なれない、から、」
「ちょっとで、いいから、分けて」

 オレだって、いっぱい、よわいとこ、見せてる、じゃないか。

 考えてみれば、阿部の前では泣いてばかりだ。会ったその日に泣いて、三星との試合前に泣いて、練習中だって泣いて、美丞に負けて泣いて、……夜中、阿部が怪我した瞬間を夢に見て泣いて、それの繰り返しだった。自分がダメだと思えば思うほど情けなくなっていた。でもどんな時も、阿部は泣くな、とは言わなかった。

 『力合わせて、強くなろう』

 そう言ってくれたから。

「……もう、平気、だから、」

 ひとりで抱え込まないでほしい。すこしでいいから、分けてほしい。何もできないと思っていた。でも、知ることはできる。そばにいることも、触れることも、支えることもできるじゃないか。だってもうおれたちはひとりじゃない。一緒に強くなるって決めた時から、ひとりじゃない。
 ぼふん。
 阿部の頭が、三橋の肩に乗った。あくまで顔は見せないつもりらしい。それでいい。一緒にいる、というのは、そういうことだ。見えないものを見るのではなくて、見せてくれるものを見ることだ。

「……ごめんな」
「ごめんは、違う、」
「……さんきゅ」

 屋根があるのに、肩がすこし濡れた気がした。





「あ、ちょっと止んできた?」
「止んできてねェし……浜田目ェやばくね」
「ひっど! 言い方!」
「やっぱ部室で待ってりゃよかったか」
「花井が早くって言ったから出たんじゃん!」

 泉と浜田、田島、それから無理やり連れてこられた花井が、コンビニで立ち往生したまま空を見上げる。濡れたシャツがまとわりついて、まくりあげたズボンはぐしょぐしょで、スニーカーは中から水が出てきた。
 思い切り首を振って水を飛ばす田島に花井がタオルをぶん投げると、泉がぽつりと言う。

「……でもさ、阿部って言わねェじゃん、痛いって」

 タオルで雫の落ちる髪を拭きながら、田島が答えた。

「美丞ン時もさ、やれますしか言わなかった」
「マジで? 立てなかったのに?」
「タイム取っても何でだよってキレられたもん、オレ」
「あー、確かそんな感じだった」
「……そんだけってことだろ」
「何が?」
「三橋の球を受けることが」

 花井の言葉に、沈黙が生まれる。阿部にとっての三橋も、三橋にとっての阿部も、重さは同じぐらいなのだろう、と思う。阿部のそれは表立って見えているから過保護だの何だの言われるだけで、実は三橋だって相当阿部のことを考えている。言葉にしなくても、視線や仕草で分かってしまう。まして、今一緒に投球練習をしている花井と田島、それに同じクラスの泉と浜田には分かってしまうのだ。
 ふたりがどれだけ互いを大事にしようとして、噛み合わず絡まってしまっているのかが。

「何かさあ、三橋、変わったよな」
「何で三橋の話ンなんの」
「まあ阿部って言えば三橋だし」
「……ほんっとにあいつらはなあ、」
「頼ってくれ、って、前の三橋なら言わなかったよ」
「田島、」

 美丞戦、公式戦で初めての捕手。自信があったと言えば嘘になる。三橋にかけられた言葉で、気づいた。あ、変わるんだ。ずっと阿部に頼りきりだった三橋が、変わってくんだ、と、その時思った。あの後、阿部の家で何を話したかは知らないけれど、きっといい変化だ、と田島は思う。だから、

「たぶん、今の三橋なら、阿部が泣いても平気だと思うぞ」





「……雨、止まないね、」
「……ん、」

 別にいいよ、と告げて、阿部は三橋にキスをする。額、耳、頬、まぶた、濡れたまつげ、くちびるに、何度も触れる。
 肝心な時に限って、ことばは不自由だ。ごめん、ありがとう、大丈夫、気にすんな、そんな簡単なことばでは到底伝わらない。三橋へのおもいは、たぶん一生かかっても伝えられない。背中に回った手がぎゅう、とシャツを掴んで、耳もとで三橋が言う。

「だいじょうぶって、阿部君が言ったら、おれもだいじょうぶ、なんだよ」

 答えにならない答え、それが今の自分に言える精一杯だった。今までと変わらない、でもきっと、全然違う、だいじょうぶ。阿部は泣いていいよと言っても、きっと泣かない。けれどもし、今みたいに見せてくれたなら、それに応えることはできる。阿部のやわらかい部分を、守ることができる。もう、頼るだけは、おしまいだ。
 阿部の顔を見る。今にも泣きそうなのに笑っていて、たぶん阿部君の言うオレの泣き笑いってこーゆー顔なんだ、と思う。目尻にちゅ、と口づけたら、お返しとばかりに世界が反転した。





「阿部もさあ、そろそろいんじゃね?」
「いいって?」
「三橋によっかかってもいんじゃねって」
「……今頃、よっかかってんじゃねェの」
「まじか! 明日部室入りづらいじゃん!」
「いや何想像してんだよ田島……」

 いつの間にか雨は上がり、雲の隙間からはゆるりと月光が降りてくる。





20160731/彼らと彼らの世界について
20200810/修正



- ナノ -