無神論者のかみさま



 あ、また泣くな。
 震えるまつげをぼんやり見つめながら、他人事のように思う。傷つけて泣かせているのは自分なのに、罪悪感はあまりない。むしろこんなことをするのは、出来るのはオレだけだという汚い優越感さえ抱く。こんなこと、誰かが聞いたらきっと胸くそ悪くなるだろう。
 まばたきすると涙が落ちるから、三橋は必死に目を見開いて下を向く。それでも耐えきれなくなった涙は、足元に丸いしみを作っていった。

「……っ、く、」
「なあ、何で泣くの、」

 オレ間違ったこと言ったかよ?
 そう問えば肩をびくつかせて勢いよく首を横に振る。じゃあ何でだよって続けてもたぶん無駄なんだろう。こいつが泣くのは呼吸みたいなもんだ。泣かせたくないとは思う。思うけれど、どうやっても三橋は泣く。最近はオレも麻痺してきている気がする。別に怒ってる訳じゃない。嫌いだから泣かせてる訳じゃない。必要があることを最低限話すだけなのに。
 今だってそうだ。球を受けたときの感覚がいつもとすこし違ったからそう言っただけなのに、三橋は泣いた。……別にそれが悪いと言ったつもりもない。ただ何かあったなら聞くべきだと思っただけだ。それだって、オレたちにしか分からない感覚の話だろうが。オレとお前が話し合わなかったら何にもならねェ。バッテリーなんだろ?
 そもそも単純に嫌いだったらよかった。泣いてんじゃねェようぜーな、で終わっただろうし。苦手なヤツでもチームメイトならそれなりの付き合いをしなきゃならない。割り切ってしまえばそれは意外に楽なもんなのに、三橋に限ってはいつまでも出来ないまま今に至っている。
 ふにゃふにゃした顔で投げてりゃいいのに。困ってンならオレに何か言やあいいのに。……言った結果、今こいつは泣いてんだけど。こいつの泣き顔は最近オレを思考停止させるから厄介だ。くそったれ、どうすりゃ正解なんだよ。どうすりゃ満足なんだよ。笑えよ、頼むから。

 ――泣かすことは出来ても、笑わせることは出来ねェなんて、皮肉なモンだ。





 空はとっくに暗くなって、ライトが当たる校庭にはもう誰もいない。そもそも何でオレたちしかいねェんだ、そう考えて、すこしだけ調子を見てほしい、と言われたので二人で残って投球練習をしていたことを思い出した。何だよ、言い出しっぺはそっちだったんじゃねェか。

「………三橋、」
「ふぐ、う、……」

 名前が口の中で溶けるような気がした。じわりじわり、三橋の名前はチョコレートみたいにオレを侵食する。それは息苦しさと、よくわからない熱さをはらむ。これが何なのかは別に知りたくもなかった。考えることは他にもある。……ある、はずなのに。

「………ごめ、なさ、」
「何が、」
「も、泣かない、から、オレ、」

 袖で勢いよく目をこすって、三橋が言う。ンなことしたら余計目が腫れるじゃねェか、思わず伸ばしかけた手を慌てて下ろす。……オレは今、何をするつもりだった? 涙をぬぐうつもりだったんだろうか。触れるつもりだったんだろうか。こいつに。三橋に。……馬鹿らしい、別にいいじゃねェかそれぐらい。じゃあ何で、何でオレは躊躇したんだ?

「……お、ねが、」
「……だから、何?」
「き、……らい、っに、」

 きらいにならないで。

 ダイレクトに響いたそれはたやすくオレを揺さぶる。
 そうして、こいつはオレをどう思ってるんだろう、なんてばかなことを考える。嫌いになるなってことは、少なからず好かれていると思ってたのか。それともこれ以上嫌いになるなってことなのか。ああたぶんこっちだ。中学時代のことを考えればこいつが誰かに好かれてるなんて考えることはない。ってことは嫌ってると思われてンのか、オレは。これ以上嫌うなって言いてェのか。まあそうだよな。普通の奴ならうざがられるくらい構ってるし、すぐキレるし怒鳴るし泣かせるしびびらせるし……まずい、自己嫌悪は後でも出来る、今はやめておこう。
 じゃあ何でこんなに三橋を見てんだろう。オレは三橋をどうしたいんだろう。オレは三橋にどうしてほしいんだろう。黙ったままのオレが怖いのか、三橋が顔を上げた。しゃくりあげるたびに細い肩が揺れる。
 見てらんねェ、と思った。
 ただ、そう思ったんだ、だから、

「………べ、く、?」
「………くなよ、」

 泣くなよ、もう、

 それこそ泣きそうな声だった。オレらしくもない、弱い声だった。オレの腕のなかで、三橋は硬直したまま動かない。――そりゃそうかもな、なんて自嘲すら覚える。でも、力を緩める気はない。肩口から三橋のにおいがした。涙のしょっぱいにおいと、汗と、甘いにおい。帰り道に菓子ばっか食ってっからだ。そういう体重の増やしかたはよくねンだけど。この行為の理由を考えることを放棄した頭は、どうでもいいようなことをものすごい勢いで巡らせる。……三橋はぴくりとも動かない。
 ずっと触れてはいけない気がしていた。たとえ友達じゃなくても、オレたちはチームメイトで、バッテリーだ。別に肩組んだりしたって構わない、手を引っ張ったって構わない、勝てば抱き合ったって構わない。それこそ田島や泉みたいに。でも何でだか、オレはしなかった。出来なかった、のだろうか。気づきたくなかったのかもしれない。そもそも会話を最低限にしようなんて考えている時点で、三橋を意識しているのは分かっていた。何故かなんて、考えもしなかった。分かっている。分かりきっている。そんなことはありえないと、チームにも、こいつにも、迷惑をかけるだけなんだと、この関係に戻れなくなるんだと、何度頭の隅に追いやってもダメだった。
 答えは死ぬほど簡単で、だけど決して認めてはいけないと思っていた。

「すきだ、」
「あ、」
「三橋が、すきだ、」
「…………う、え、」
「すきなんだよ、お前が」

 言葉にした途端、それは一気に溢れ出した。すきだ。オレは三橋がすきだ。すきですきで仕方ない。本当は笑っていてほしいと思う。でも、それが出来ないならせめてオレの前でだけ違う三橋が見たい。オレだけの三橋が欲しい。どうしようもなく汚い独占欲だ。ちくしょうすきだ。何でこんなにすきなんだ。もうそれ以外のことばが浮かばない。自分を押しつけているだけで、三橋はどう思っているかも分からないのに。汗ばんだ手で三橋のユニフォームを握り締めた。もうすこしだけ、ほんのすこしでいいから、このままでいさせてほしい。いや、だめだ。たぶんこのままでいたら耐えられない。もっと、触れたくなる。頭では分かっているのに、からだはこいつを離そうとしない。
 ああ、男って本当に単純に出来てんだな。吐き気がする。
 ばかみたいだ。こんなにすきなのに、どうしてオレは、こいつに優しいことばの一つもかけてやれないんだろう。

「……ごめん、な、」

 ―――こんなんで、ごめんな。

「………何で、ごめ、ん?」

 ずっと黙ったままだった三橋が、そう言った。言いたくなかった。死ぬほど大切な思いを、いくつも言い訳をして壊そうとしているなんて、言えるわけがない。これ以上、みじめになりたくなかった。

「じゃあ、オ、レが、いま、……う、嬉しいのも、だめ、なのか」
「………うれ、しい?」
「だって、オレ、あべく、……っ」

 三橋がオレの名を呼ぶ。しゃくりあげながら、つっかえながら。
 何だこれ。何だよ。何でそんな声で呼ぶんだよ。何で嬉しいなんて言うんだよ。もうやめてくれ。違うんだよ。もう友達のすきじゃねンだよ。もっと汚くて、ずるくて、カッコ悪くて、そんで、……友達より、ずっと大事なんだ。大事なんて陳腐なことばより、もっと、もっと、何て言ったら伝わるか、もう分かんねェぐらいに。

「オレ、だって、あべく、………っき、だも、ん」
「、みは、し?」
「も、っと、こうして、……たい、けど、っ」

 だめなら、離してください。
 そのまま消えるんじゃないかってくらいの声で、三橋は言う。オレの胸に両手を押し当てて、自分から離れようとしてるんだってのは何となく分かったけど、すぐに気づいた。全然力が入ってないことに。それどころか、オレが力をゆるめないせいで、三橋は頭からオレの胸に突っ込むような形になってしまった。ユニフォームが、じわりと温かくなる。うああ、と、うなるような泣き声。
 ああ、三橋が泣いてる。オレのせいで。オレのために。なあ、さっきお前何て言った? オレを、何て言ったんだ? 何がだめなんだ? 信じていいのか、自分の耳を。都合のいいように解釈した、この耳を。
 心臓が痛い。熱い。なあ誰のせいで、こんなになったと思ってるんだよ。こんなんオレじゃねンだよ。背中に回した手でそのまま三橋の顔に触れた。持ち上げるように、目を合わせる。ふわふわの猫っ毛も、ぼろぼろ落ちる涙も、荒い口呼吸も、薄茶のでかい目も、泣くと濡れて長く見えるまつげも、熱もって赤い頬も、ああもう、

 お前も、そうだって、なあ三橋、ほんとうか?

「………っ嬉しい、のは、だめじゃ、ねえよ」
「……う、ほ、んとう?」
「オレ、は、だめじゃねェ、」
「………あべく、阿部、くん、」
「なあ、何で嬉しいか、……もっかい聞かせて」
「も、もっかい、?」
「オレ、めちゃくちゃ勘違いしてるかもしれねェし、だから」

 言いながら急に恥ずかしくなって、三橋の肩に額を乗せる。さっきと状況は違うが耐えらんねえ。何だこの感じ。三橋がふはっ、と息を吐く。どっかの誰かみたいにたどたどしい言い方しか出来なかったのは、もう余裕がねェからだ。オレ、たぶん帰ったら熱出る。三橋の答えがどっちだって、もうどうでもいい。よくねェけど、何かもう開き直れるような気さえする。それでいい。もう、いつものオレに戻るには何もかも遅い。やっちまったもんは仕方ねェ、そんなところまできていたから。

「あ、べくんが、すき、だから、です」

 ああもう、ばかだ。こいつばかだろ。何でそんな、ああもう三橋ンことしか考えられねェ。火照った手でさっきとおんなじように火照った三橋の顔を包む。初めてのキスはそりゃもう見事に歯がぶつかって、涙のしょっぱい味がして、そんでもうそっから先は、ああもう、三橋、分かんねェ。





20120111/阿部隆也は語る
20200810/修正



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