まほうつかいの左手



「かぜをひきました。きょうのぶかつはやすみます。かんとくにつたえてください」

 ひらがなだけのメールに阿部が気づいたのは、部室で着替えを終えた時だった。ごめんなさい、と続いた本文に、そのすぐ謝るクセはどうにかなんねェのかと思いながら返信する。かかってしまったものは仕方がないのだから、とにかく治せと言うしかない。

「寝てろ。帰りに寄る」

 自分でも淡白だな、と呆れるようなメールを送って、部室を出て監督に三橋の休みを告げた。もともとが10人しかいない部内では、一人の不在が他よりも際立つ。まして年明け初めての部活では、半分は互いに会いに来ているような部分があったからだ。何もない正月は飽きる。何もしなければ体はなまる。はじめこそ明けましておめでとう、と始まったものの、ある程度メニューをこなせばいつもの雰囲気へと戻ってゆく。何だかんだ言って、誰もが野球をしたくて仕方なかったのである。

「何だこれ」

 いつもよりすこし軽めの練習を終え、がやがやと部室に戻る。着替えよりも先に携帯を開いた阿部が、すっとんきょうな声をあげた。

「きちゃだまた」

 「だま」って何だ。……ああ、だめってしたかったのか。一人納得していたところに、なあソレ三橋から? と聞きながらのぞきこんできた田島がぶはっと吹き出した。「きちゃだまた!」それをきっかけに阿部の携帯は田島から花井へ、花井から泉へといった形で部員の手を渡る。

「だまたって何、だめだってこと?」
「オレもよくやる、こーゆーの」
「押した気になってるだけってやつな」
「あははちょっと待って、オレツボったかもしんないんだけど!」
「つか、何できちゃだめ?」
「そりゃお前、うつるからだろ?」

 ようやく戻ってきた携帯を閉じる。着替えを終えてさて行くか、とスポーツバッグを持ち上げると、「なー、お見舞い行かねえ?」という田島の声が耳に飛び込んできた。当然一人で行くつもりだった阿部は思わず振り返る。

「や、今うつるっつっただろうが」
「だって桐青ンときは行ったぞ」
「アレは風邪じゃなかったじゃん。三橋カレー食えてたし」
「あーカレーうまかったよなー!」
「うまかった!」

 話題が三橋家のカレーになったところで、水谷が電話かけてみようよ、と持ちかけた。ひとりで寂しがってるかもしれないし、お見舞いより向こうが楽じゃない? それを聞いて、有無を言わさず寄るつもりだった阿部もはた、と思いとどまる。たまにはまともなこと言うじゃねェか、何でもないように言えば阿部は一人で行く気満々だったんでしょー! と満面の笑みを返された。前言撤回だクソレフトめ。

「三橋だってオレらの声聞けば元気になるかもしんないじゃん」
「それは元気になるな!ゲンミツに!」
「そうか? ウッセーってなるだけじゃねえの?」
「待て、寝てるだろ」
「電話すりゃ起きるって!」
「あ、あのさ、もし寝てたら起こすとか迷惑なんじゃ…」
「沖ー、それ正論」
「正論だけど、三橋が喜ぶってのもありそうなんだよな」
「三橋だもんなあ、」
「そんじゃあ阿部よろしく!」

 そうして阿部は半ば強制的に、三橋に電話をかけることとなったのである。





 ――みはし、みはし、

 ぼんやりした頭に、阿部の声が響いた。そんな気がして目を開ける。見慣れた携帯電話が視界に入った。いつの間に手にしていたのか分からないまま、ごろっと寝返りをうつ。寝る前にあった全身のだるさはだいぶ取れてきている。水分を失ってはがれかけていた冷却シートを枕元に丸め、ふう、とためいきをついた。
 もう部活は終わっている時間だ。年明け初の部活。行きたかったなあ、と今さらながら思う。みんなに会いたかった。野球がしたかった。体調管理がなってない、と、阿部は怒っただろうか。その様子を思い浮かべて、すこし笑う。心配されるより、そうやって怒ってくれる方がいい。
 ふと、お腹が空いていることに気づく。食欲が戻ってきた、ということは、回復に向かっているのだろう。そこまで考えたとき、階段をのぼってくる足音が聞こえた。気のせいでなければ、ふたつ。

「……ごめんなさいね、わざわざ」
「いえ、こっちこそすいません、いきなりで」

 そう話しながら部屋に入ってきたのは、見慣れた母親。と、阿部だ。思わず起き上がったところで目が合った。そんな三橋の顔を見て、「ほらね、お昼だから起きてたでしょ」「起きてましたね」と笑うふたり。

「……なんで、」
「お見舞い来てくれたんだって、阿部君」
「お、みまい、」
「ちゃあんとお礼言いなさいよ、あとこれお昼! 阿部君も食べてってね」

 勉強机に置かれたのは、三橋用のおかゆと、阿部用のおにぎり。とりあえず食うか、と、荷物を置いた阿部がおかゆを手渡す。意地悪く「食わせてやろうか」などと変なことを言うものだから、三橋は危うく器を落としかけた。すこしずつ冷ましながら、まだ湯気ののぼるおかゆを口に運ぶ。それを見ながら、阿部もおにぎりを頬張った。

「……オレ、きちゃだめって、」
「そのつもりだったけど、誰かさんの電話があやしかったもんで」
「……うえ、?」

 でんわ。デンワ。食べ終わってもまだスプーンをくわえたまま、枕元の携帯を見やる。そういえば、目が覚めたときに携帯を握っていたんだった。ということは、寝ぼけたまま電話に出たのだろうか。

「出たはいいけど返事はないし呼吸は変だし、まじでびびったんだからな」
「……オレ、デンワとったの?」
「とったよ、ほら」
「…………う、」

 着信履歴と通話時間を見て気まずそうにする三橋。出た覚えはないらしい。とりあえず危ねェからスプーンくわえんな、と食器を片して三橋を寝かせた。





 あの後、阿部が三橋に電話をかけた。取った気配はあったものの、三橋は何も言わない。聞こえてくるのはいつもより荒い呼吸と、小さな唸り声。風邪なのは知っている。ただの風邪だ。大丈夫だ。寝ぼけてるだけだ。――それでも。
 代われ代われと促す周りを押しのけて、部室を飛び出した。

「……じゃあ、阿部君の声したの、ほんとだったんだ、ね」
「なんだそれ」
「さっきね、みはし、って呼んでる、阿部君の、声、聞こえて」
「……それ、オレって分かったの」
「え、……わか、ったよ?」

 あんな状態でも、分かるもんなのか。三橋の声と表情からは、分かるのは当たり前だという雰囲気すら伝わってくる。……そんなことが、嬉しい。三橋の中に占める自分を、すこしは過信していいんだろうかと、口には出さずに思う。そんなこと言ってっと自惚れますよ、三橋君。
 思わず口元に手をやる阿部に、三橋が何かに気づいたように布団にもぐりこんだ。その動きの意味が分からずのぞきこもうとする阿部に、おずおずと口を開く。

「……あべく、」
「ん? 何?」
「オレ、へいき、」
「んな顔で何言ってんだ」
「……うつっちゃう、から、来ちゃだめって、」
「うつんねえよ、オレばかだから」
「……ばかじゃない、よ」
「いいんだよ、オレが会いたかったんだから」

 会いたかった。オレだって、会いたかったんだ。抱きつきたいのをこらえて、布団から顔を出す。頬に、阿部の手が触れる。つめたくてきもちいい。そうして、びっくりするくらいやさしい。

 ……今日何したの、明日は何するの、みんな元気だった、
 みんな元気だよ、……心配してた、早く野球しようってさ、

 そういえば、まだ、明けましておめでとうも言ってない。今年もよろしくお願いしますって、言ってない。

「つかお前寝てろって。病人だろが」
「あ、うん、でも、」

 寝たら、いなくなっちゃう、でしょう。
 三橋の中で、確信めいた言葉が浮かぶ。絶対に阿部はそう言わないけれど、たぶんそれは当たっている。というか、親でもないのに寝ている病人の部屋にいる理由が見当たらない。きっと気を遣って、寝るまでは笑っていてくれるんだろうと思うと、わがままな自分に嫌気がさす。寝れば回復するけれど、寝なければ阿部が傍にいてくれる――そんな風に考えてしまう、自分に。
 もうすこし、本当はもっと、話をしたい。昨日のことでも、今日の天気のことでも、お互いのことでも、名前を呼び合うだけでも、いいから。

「……あ、」

 さっきまで携帯が握られていた右手を、阿部の左手が包む。そのままベッドに頭を乗せて、三橋の顔を見やる。とくとく、と、手首が鳴る。熱はゆっくりと、お互いのてのひらを侵食する。

「寝るまで、な」
「ん、……ありが、とう、」
「ん」
「……べく、」
「何?」
「……う、つしたら、ごめんね、」
「……そん時ゃそん時だ」

 今は休みな、そう言って阿部は絡めた指にすこし力をこめた。汗ばんだそれは、しっとりと阿部の手を握り返す。空いた手で額に張り付いた髪をいじってやれば、気持ちよさそうに目を閉じる。一分と経たないうちに、三橋はすうすうと寝息を立て始めた。





 ぼんやりと、天井が見える。
 電気をつけていなかった部屋は、それでも西日がさしているおかげで明るく感じた。……ぐっすり寝てしまった、らしい。目をぱちぱちと瞬きさせて、三橋はゆっくりと考えを巡らせる。阿部は、もう帰っただろうか。
 そうして、まだ右手があたたかいことに気づいた。何でだろう、と顔を向けると、つながれた手の先に阿部がいる。「うえ、」思わず出た変な声に、阿部が目を覚ました。「やべ、寝てた」目をこすりながら、あくびをする。

「あ、オレ、が、寝るまでって、」
「んー? そうだっけ?」
「ゆ、ゆったよ、」
「や、帰ってもよかったんだけど……」

 つか、長居しちゃ悪いって思ったんだけど……起きたらいないって、ヤじゃね?

 そう言った阿部への返事の代わりに、三橋はぎゅう、と手を握った。それしか出来なかった。どうしたら伝えられるのか、わからなかった。嬉しいとか、すきとか、ありがとうとか、ごめんなさいとか、まだこうしてて、とか、ないまぜになった気持ちを。
 熱のこもった手を握りなおして、絡め合って、すこし揺さぶって、笑った。

「そういや、お前あっちで何かしたの?」
「あっち、あ、えと、……雪が降ったから、ずっと外出てた」
「はあ?」
「厚着すればだいじょぶだって、修ちゃんが」
「…………へえ」
「そんで、そのときは平気で、昨日、帰ってきて、寝たら、熱出て」
「……お前ろくに休まないで遊んでたな?」
「で、でも、熱、いま、寝たら、下がった!」
「嘘つけ!」

 勢いよく手が離されたと思ったら、枕元にはがした冷却シートを見つけられ、何ではがしてそのまんまなんだと怒られ、阿部の額がくっつけられる。めまぐるしい動きに、ぶわっと全身に熱が伝わる。

「う、ひゃ」
「まだちょっと熱あんじゃねェかてんめえ」
「あああ、あの、ひ、ひえぴた、」
「何? 替えあんの?」
「ある、よっ」

 机に視線を合わせれば、阿部は手早く三橋の額に張り替える。前髪を上げる手が温かくて優しくて、口ほど怒っていないのが伝わってきた。
 ……苦手、なんだ、心配だってそのまま言うのが。
 まだびくつくこともあるけれど、それが分かるようになって、またすこし阿部との距離が近くなっている気がした。ぺち、とシート越しに額を叩かれる。

「ん、ほら」
「ふあ……つめた、」
「ちゃんと寝ねェと治んないかんな」
「ん、ねる、」
「んで治して部活来て、自己管理がなってねェってモモカンに怒られろ」
「うう、や、だよう……」

 今までの経験からして、彼女に何をされるかは容易に想像がつく。思い出したように怯える三橋を見て、阿部は目を細める。こんだけ元気ならもう大丈夫だろ、そう言って立ち上がった。

「……じゃ、オレ帰るな」
「……うん、」

 額がゆっくりと冷やされてゆく。いくらでも寝られるような気がして目を閉じた。……本当は、今度こそ部屋から出て行く阿部を見たくなかったのかもしれない。彼が立ち上がった後、不意に近づいた気配がして目を開けた。
 阿部の顔、が、真上にある。

「あ、」

 名前を呼ぶ間もなく、鼻先にくちびるが触れた。
 驚いた拍子に起きあがると、阿部は何でもないようにバッグを肩に掛ける。「い、い、い、いま、」何したの、鼻に触れながら言うと、振り向いた阿部はいつもの悪そうな顔で「口はやめといてやったぞ」と笑った。

「んーじゃまた明日」
「あ、また、あした、」
「無理しろっつってンじゃねェかんな」
「うん、へっき、あの、ありがと、」
「おー」

 ぱたん、と閉められたドアを見ても、もう寂しさはなかった。明日になれば、また会える。当たり前のことが、嬉しかった。次に目が覚めたら、きっと熱も下がって、元気になっているだろう。阿部が、来てくれたから。そうやって、何の根拠もないことを思う。……阿部君、ばかじゃないから、うつったかも、なあ。まどろんだ頭にそんなことを思い浮かべて、三橋は再び眠りに落ちる。

 ――せめて夢では、野球が出来ますように。





20110214/甘やかす阿部とかぜっぴき三橋
20200726/修正



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