夜に想ふ 頬に触れる何かに、ぼんやりと目を開ける。ひやりとしたそれが阿部の手だと気づくまで、時間はかからなかった。 ……い、っしょに、寝たんだ、っけ。 シングルベッドは二人で寝るとほとんど身動きができない。阿部の手が偶然触れたとして、何もおかしなことはない。ただ彼の手が、びっくりするほどに冷たい。どうしてだろう、こんなにくっついているのに、あんなに夢中になって、……あんなに抱き合ってぐちゃぐちゃになって、熱を分け合ったはずなのに。 どうしたの、そう言おうとして、言えなかった。暗闇に慣れてきた目が映した彼の表情が、いつもと違ったから。 「……あ、べくん?」 「………あ、」 「う、おっ」 名を呼べば、はっとした阿部に抱きすくめられる。回る腕が、痛い。阿部は力を緩めない。いつだって三橋を気遣う彼にしては、珍しいことだった。……すこし、震えている、気がした。 「……ん、」 「ワリ、……ちょっとだけ、こうさせて」 ああ、阿部君だ。いつもオレを大事にしてくれる、阿部君だ。こんな時に、気にすることないのに。何があったか分からないが、とにかく今、阿部は震えている。呼吸が浅い。首筋にかかる吐息は、熱かった。 どうして、どうしたの、後から後から溢れる問いを飲み込む。落ち着くまで待とう、そう決めて三橋はきゅ、と阿部のシャツを握る。それでも、阿部に抱きしめられている状況はむずがゆい。顔が熱くなるのを感じた。こすりつけるように、肩口に埋める。背中に回った腕から、くっついた首筋から、聞こえてくるのは彼の中に脈打つ音。 (……心臓、どくどくゆってる、) あんなに、手は冷たかったのに。 じわ、と目が熱くなった。何度も瞬きをしてごまかすが間に合わない。どうしたの、なるべく泣いていることが分からないように、ゆっくりとたずねた。阿部は答えない。 こんな阿部は知らない。だから、こわい。どうすればいいのか分からない。阿部はいつも自信があって冷静でサインをくれて、三橋がいっぱいいっぱいになっていても、それを分かっていてくれた。分かろうとしてくれていた。……でも、きっと強くはないのだ、三橋はそう感じていた。阿部だって同い年の高校生で、決して完璧な人間ではない。今の三橋には、自分の考え得る言葉を与えることしかできない。例えそれが、阿部の望んだものではないとしても。一緒に強くなろうと約束したのだから。おんぶに抱っこはもうやめると、決めたのだから。ふ、と息を吐いて、紡ぐ。 「………」 「……あべくん、」 「………」 「阿部君、だいじょうぶ、」 腕がゆるんだことに気付き、顔と顔を近づけた。阿部の目が、三橋を映す。 「オレ、ここに、いる、」 「……みはし、」 「うん、」 「三橋」 「……ほら、ね、近い、でしょう」 「……ああ、」 「だから、っだいじょう、ぶ、なんだよ、?」 我慢していた涙が、そう言った途端に溢れ出した。それを見て焦った阿部の指が目尻に触れる。よかった、さっきよりあったかい。それなのに涙は止まらない。阿部が悪い。目の周りを赤くして、泣きそうな顔をしていたのが悪い。そんな顔をされたら、それこそ三橋はどうしたらいいか分からないのに。 何もできない自分を、そんな風に阿部のせいにする自分を、また嫌いになるだけなのに。 「何でお前が泣いてんの……」 「だ、……って、……なきそうなかお、っする、から……」 「……オレが?」 「………やだ、あべく、なくの、やだ」 「だからってお前が泣くこたねェだろ」 「………う、……やだ、よ…」 「……ばか」 阿部がゆっくりと頭をなでる。待つと決めたこころは簡単に揺さぶられて、言いたいことは何もかも泣き声に変わってしまう。くちびるが乾いて、口がうまく動かない。 泣かないで、こわいことなんて何もないんだよ、オレはここにいるよ、だいじょうぶだよ、だからお願い、そんな顔をしないで、ねえお願い。 ひたすらに目をこする三橋の手をとって、阿部は自分のそれと絡めた。 「……めちゃくちゃ嫌な夢、見た」 「っう、……ゆめ、」 「そう、夢」 シャツの袖で三橋の涙を拭う。ぼろぼろ、と音がしそうなくらいに大粒のそれは彼の頬を濡らし続けた。水分補給した方がいいんじゃねェかな、阿部は割とまじめにそう考える。 三橋が泣き出したら泣きたいだけそうさせておくのが、阿部のやり方だった。試合中に泣かれたら何とかして泣き止ませはするだろうが、あくまでそれは例外だ。こうやって二人でいるときは、好きなようにさせてやりたかった。泣き顔を見たくなくて、何度か泣くなと言い聞かせたことはあった。そうすると三橋は余計に泣いてしまう。我慢して、耐え切れなくて、堰き止められなくなって、だから泣く。それが分かってからは、泣くなと言うのをやめた。 血の通いだした手で三橋の手を包めば、ぎゅうと強く握り返してくる。 ……どっちが慰められてンだか、なァ、 だからといって、泣いた自分とそれを慰める三橋なんて、あまり想像したくない。 空いた手で髪をゆっくりと撫でてやる。息が整って、三橋が阿部を見た。大きなくりくりの目に、これまた大きな涙をためて。 「……二番、取られた」 「だ、……だれ、に」 「ンなの、わかんね」 往々にして夢とはそういうものだ。みている間は驚くくらい現実感にあふれていても、目が覚めた瞬間にそれはただのおぼろげな記憶に変わる。だがほんのさっき、一瞬だとしても阿部の中ではそれが事実で、だからこそ、それは焼きついたように頭から離れなかった。今だってよぎる、目の前のバッテリー。投手は三橋、捕手は知らないダレカ。 「……おまえが一番つけて投げてんのに、そこにオレいねェの、知らねェヤツが二番つけて座ってンの、そんでお前の球受けて、……いつの間にかお前もそいつもどっかいなくなってて、オレだけ取り残されてさ、……何だよそれ、って、」 「………そ、それで、」 「で、目覚めて、目の前に三橋がいて、あー夢かって」 「……あ、だからほっぺた、」 「ん? ああ、ほんとに三橋いるよな、って思って」 思わず、触れた。消えない、いなくならない、ああこれは現実だ。三橋は確かにここにいる。彼の頬を熱いと思ったのは、自分の手が冷たかったからだ。からだが夢に反応したらしい。……それほど、だったのだ。自分にとって、三橋とのバッテリーというものは。 何より、三橋という存在、は。 「……ごめんな、起こしちまって」 「ううん、」 三橋はふるふると首を振る。自分がいて、阿部が安心したのならそれでよかった。不意に阿部が笑う。笑っちまう、そう言って、笑う。 「今話してても夢だって分かるよな、こんなちぐはぐしてんのに」 「……あべく、」 「……こんなんなるんだな、オレ」 バッテリーだから三橋と一緒にいるのではない。一番が三橋で、二番が阿部で、だがそれを決めるのはふたりではない。いつかのミーティングを思い返す。田島に背番号を書かれた練習着、それを見て満足そうに笑う三橋。 ……夏の大会が終わって、季節がめぐった。ふたりを繋ぐものは今はもう野球だけではないと、そう思っている。それでも、野球がなければ、あの始まりの日がなければ、今ふたりはこうしていない。事実そうなのだ。 「……阿部君は、こわがり、だ」 三橋が口を開く。 「……そっか」 「こわがり、だよ」 ああそうだ、オレはお前の隣にいられなくなることがこわいんだ。 見透かされた、そう思うより先に納得してしまう。 どこかに行ってしまった三橋を追えなかったのは、その選択が正しいと思っているからだ。追い縋ってはいけないと思っているからだ。怪我が治ればまた野球はできる。チームメイトとして、また先へ進める。だが、こうして抱きしめあう関係がいつまで続くのかも分からない。続いてはいけないものなのかもしれない。 それでも、熱は消えることなく、阿部の中に強く存在する。捨てる気などさらさらない、柔らかい光。その先にいるのは三橋で、だからこそ、三橋とのすべてを失うのが、ただこわい。大事なものは失ってから気づく。なんてありふれた言葉だろう。今までにも思い知ったことはあった。だが目が覚めた瞬間の恐怖は、今までの比ではなかった。 「……そうだな、オレ、お前いなくなんのこわい。野球できなくなんのもこわい、」 語尾が、かすれて聞こえた。今度こそ泣いてはいけないと、三橋は思う。泣いたら阿部はきっと自分を心配して、また阿部自身を放り出すから。自分にできること、阿部のためにできること、今までずっと考えてきて、辿り着いたのはシンプルなものだった。 「……ね、」 「ん?」 「明日、起きたら、キャッチボール、しよう」 ふひ。泣きそうな笑顔で、三橋が言う。やっぱり、オレたちができるのは野球なんだよ。そう、続けた。 力が抜けた。そうやって、お前はいつも簡単に踏み越えてくれるんだ。オレの中のドロドロしたものを、全部吹っ飛ばして、そのくせ泣き虫で勝手に傷ついてはオレを困らせて、そんなお前が本当に大事で、たぶん伝わってねェと思うけど、お前が思ってるよりずっとオレはお前に救われてンだ。 「約束、」 「………おう」 温くなった小指を絡めて、確かめる。嘘はつかない。 何となく、眠らなければ明日は来ないような気がした。今度こそあんな夢を見ることのないように、くっついて目を閉じる。足がぶつかってシーツがたるんだ。そうしているうちにゆるゆると体温は上がり、まどろんだ意識は溶けていってしまうような気さえした。三橋がそう言うと、阿部は「じゃあ壁投げするしかねェな」と笑った。ひとりじゃキャッチボールは無理だもんな。 溶けてしまえばいいのに、とは、思っても言わなかった。 「……晴れる、かなあ」 「……晴れンだろ」 「そ、っか」 「………」 「……ふふ」 「……ンだよ、」 「ううん、……おやすみ、なさい」 夜明けは、もう近い。 20110121/悶々阿部と泣かない三橋 20200719/修正 ← |