larmo 答えのない問いを繰り返して、ただ走る。 運動部で頑張っている姿というのは、いい意味で普段とのギャップが大きいという。当然のように野球部もそこに含まれている。実際に汗まみれ泥まみれで練習着の汚れが落ちなかろうとミットが臭かろうとパンツ一枚で部室にいようと、見つめる視線が遠ければ遠いほど気にされない、というか見えないことになるらしい。 まったくもって勝手な言い分だと思う。そういうのを含めての野球部だろうが。今目の前で視線を合わせない女子を見て阿部は内心毒づく。 「阿部君、捕手なんだよね」 「はあ」 「応援、何度か行ったことあって」 「そりゃどうも」 「すごい、かっこいいなって、思って、それで」 「あのさあ、」 「えっ」 「話って何」 何故こんなに苛つくんだろう。昼休みに呼び出されたからか、話の内容が九割方読めているからか、彼女のことをほとんど知らないからか、それともたどたどしい喋り方がどこか彼を思い出させるからか。申し訳ないけれど早く戻って昼飯を食べたい。それから昼寝して部活に備えたい。 こちらの苛つきが伝わったのか、意を決したように彼女は顔を上げた。 「あの、私、阿部君が好き」 ああそうですか、としか思わなかった。 何せ今日はバレンタインデーというやつで、チョコとの相乗効果で想いを伝えやすい日である。さすがに下駄箱に詰め込まれていることはなかったが、机の中やらロッカーの中やらばらまかれた義理チョコやらで、カバンの中は相当数のラッピングが占拠していた。その中に入っていた手紙で呼び出されてみれば、相手はクラスメイト。年が明けてもそこまで話した記憶のない女子だった。 「だ、だから、よかったらこれ、」 差し出されたのは可愛く包まれたチョコであろうもの。ここで受け取ったら彼女はOKなのだと解釈するだろう。断れば好きな奴がいるのか聞いてくるだろう。答える義務は全くないが、「今は誰とも付き合う気はない」というありきたりな言葉を果たして受け入れてもらえるか。告白はする側もされる側も難しい。 めんどくさい。あれこれ詮索されるのも噂になるのもまっぴらごめんだ。阿部だけがそうなるのは別にいい。でもそれを見て傷つく奴が確実にひとりいる。そうして、たぶん、泣く。あいつの泣き顔は苦手だ。こんなことで煩わせたくない。 目の前で女子はおじぎのようにチョコを差し出したまま動かない。どうすっかなあ、と目線を横にずらす。あえて選んだ人通りの少ない方の渡り廊下と、日陰の校舎裏。そこに見えたのは、 「み、はし、」 「……っあ、」 「三橋!」 見開かれたその目にみるみる涙が溢れる。名を呼ぶが早いか三橋は勢いよく駆け出す。ごめん無理すきな奴いっからほんとごめん、早口でそれだけ伝えると阿部は三橋の消えた方向へと走り出した。頭の中に浮かぶのはさっき一瞬見えた三橋の泣き顔だけだった。ちくしょう今日は厄日か。何でこんなとこに来たんだ。答えのない問いを繰り返して、ただ走る。 どうであれ三橋を泣かせた。オレが泣かせた。それだけだくそったれ。 三橋の行き先を予想しながら辿り着いたのは屋上に続く階段だった。小さくなって肩を震わせる相手を見下ろす。「三橋、」呼びかけるとびくつくも顔を上げない。大粒の涙は止まることを知らないらしい。 「……なん、っで、きたの、」 「はあ?」 かけられた声で阿部だと分かった。本当は近づく足音で分かっていた。どうして追いかけてきたのかと責めたくなった。今日の日付と差し出されていた小さな紙袋と、真っ赤な女の子の顔を見れば嫌でもそういう現場だと分かる。あんなところ通らなければよかった。自販機に飲み物を買いに行かなければよかった。ひとりで、行くんじゃなかった。もはや八つ当たりに近い。あの子を置いて、何故自分を追いかけてきたのか、と言いたかった。 ……嬉しいと、思ってはいけない気がした。 「ばかか、何で泣いたお前ほっとけんだ」 「だ、って、あの子、」 「クラスメイトだよ」 「ちが、うっ、」 「違わねェ」 「ちがう、だろ、」 断った。断り方は最低だったが、今も彼女は阿部にとってクラスメイトでしかない。しばらく口も聞いてもらえそうにないが、三橋の前ではそれは些末なことだ。その三橋が珍しく声を荒げている。先ほどの苛つきも相まって阿部の声にも自然と棘が含まれる。天秤にかけるまでもなく阿部の中では三橋が何より優先される。何故責められなければならないのか。 「……あっち残ってろって言いたいのか」 「っく、」 「お前ンこと無視して?」 何だよそれふざけんな。 追いかけてきてこんな風に責められると思っていなかった頭は、考えるより先に言葉を吐き出してしまう。売り言葉に買い言葉、今の阿部の状況はまさにそれだった。 「オレはお前の何なんだよ、」 あ。 頭が一瞬で冷えた。違う。違うこんなことが言いたいんじゃない。責めるつもりも何もない。三橋の中の阿部の順位は三橋が決めることで、そこに口を出すのは間違っている。少なくとも、阿部はそう思っていた。 三橋が顔を上げて阿部を見た。しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。 「な、何、って、」 「わりィ、違う、今のは」 「阿部君、は、」 「阿部君は、っすきな、ひと」 その返しに阿部の頭は一瞬思考を止めた。 先ほどの問いの答えらしい。一分前までと空気が変わった。下手すれば別れ話、そう思っていたほどの危惧が消え失せる。というか、根本的に三橋と阿部で質問の意図がずれている。絶妙なタイミングでチャイムが鳴ったが、三橋は動こうとしなかった。ふう、とひとつ息を吐き出して、阿部は三橋の前に座った。 「あー、……うん、だからつまりさ、」 少し余裕が出た。面と向かってすきだと言われた嬉しさを隠して、阿部が続ける。 「オレら、付き合ってンだよな?」 「……う、ん」 「まあさっきは……その、告白されてたんだけど」 「う、ん、」 「そんなん、誰が来たって断ンだろうが、」 「…………」 三橋は答えない。 「……くるしい?」 「う、」 どうして、とは聞かなくても分かっていた。 すきなのに、くるしい。 阿部も感じていたことだった。男同士だとか、誰にも言えない関係だとか、その負い目だとか、こうして泣くことすら隠れてするしかない、そんなことが、くるしい。すきだから、嫌な思いをさせたくない。それはお互いに想い合うほどに大きくなってゆく。いっそどこか遠い場所で、ふたりだけでいられたなら。何度か考えたことだった。それでも、別れるなんて選択肢はなかった。 「オレだって外で手つなぐとか、オレらのこと隠したくねェって思うよ」 「……それ、は、オレと、だから、っできない、」 「だからってさっきのやつと付き合うってのは違うだろ?」 「だって、オレとじゃ、なかったら、」 三橋は思う。たとえばあの子となら、阿部は何にも苦しまなくていいのに。何も気にせずに幸せになれるのに。再びこみ上げる涙を拭う。 ああどうして、オレはこうなんだろう。すきなひとに、阿部に、こんな顔をさせている。阿部がすきで、別れるのは嫌で、それでも考えてしまうのはこんなことばかりで。こんな形で言うつもりはなかったが、彼女の告白がきっかけになってしまった。 ぺちん、と頬を叩かれる。不意をつかれた拍子に引っ張られた体は簡単に阿部の腕に収まった。 「分かっけど、それは違う」 すこし震えた、それでも強い声が聞こえた。 「オレがそうしたいのはお前だからだ」 「っあべく、」 「三橋がすきだからしたいんだ、他の奴じゃ何も意味ねェ」 「……ご、ごめん、ね」 「だーから、何も悪いことしてねェだろが」 ほんとうは、その言葉だけでよかった。お互いのこころが、いつもおなじ所にあればいいだけだった。それ以上を望むからくるしくなるのに、ひとのこころは欲まみれだ。いつもばかみたいに傷つけ合って、そうして何度も抱き合う。 「………すき、」 「うん」 「阿部君、すき」 「うん、」 「すきです、」 「オレもすきだよ」 「あべく、……あべくん、」 「みはし、」 「ど、しよう、……っ」 「どした」 「阿部君、すきで、オレ、ヘンになりそう、」 「……みはし、目つぶって、」 返事を待たずにくちびるを押しつけた。いっそ変になっちまえばいい。オレのことだけ考えてりゃいい。呼吸を奪うようにキスを繰り返しながら思う。おずおずと背中に回った腕に力が入った。濡れたまつげにくちびるで触れる。三橋がくすぐったそうに笑った。やっと笑った、そう言って阿部も表情を緩めた。 これから何回泣かせるんだろう、そうして何回笑わせて、何回抱き合えるんだろう、オレたちは。 「……あの、ね」 「ん?」 「チョコ、……ある、よ」 「まじで?」 「うん、」 「嬉しい」 「うひ、」 「……一緒に食おっか」 「……うん、」 三橋がポケットから出してきたのはチロルチョコだった。色とりどりのそれはポケットが変形するんじゃないかというくらいあった。よくこれで走れたな、感心するように言うと、頬を赤くして、そんなこと言うと、あげない、と返してくる。結局同じ数ずつ分け合って口に含んだ。 チョコは一つで十分なほどに甘かった。三橋の涙はしょっぱかった。たとえこの先三橋がどれだけ泣いたとしても、それを拭うのはいつだって自分であってほしい。阿部はそう小さく祈った。 20100214/女の子とアベミハ 20200719/修正 ← |