沈丁花



 自分は数多の何かへ向けた感情をひとつだけ人から抜いてしまえるのだ。
 たいてい1日1回。気になるメカニズムは未だ解明されていない。科学は私のことが嫌い。
 言っておくと抜いたものは両手で潰せば、相手に未練のような空虚感を残させずに済む特典付き。

 これで関わりのなかったことにしていく。合法的で絶対的に。
 だが、偶然から鳶色の瞳の彼に会ってしまう度に彼は自分を好いている。
 まずい、と思う反面、彼のスペースが心のなかに出来ているのは確かだった。
 そして時がくると幾度となく、彼から抜いた。かざせば、霧の合間をぬって日の光を受け、さくら色に淡く輝く。
 美しくて満たされぬものを。
 私はそれを記憶ごと消せるわけではない。

 感情の伴わない記憶はおおかた消去され、断片的に蓄積される。
 私の所作でそれを思い出されると厄介極まりない。でも、忘れてしまったことを人は果たして何度思い出せるだろう。

 なぜ彼は毎度のごとく私を好きになるのだろうか。
 数奇な運命だと言ってしまいたくないのはどうしてだ。
 世を厭うように何もかもが目新しいこの街に来たというのに。

 今日、近道を使った際にサイフをスられた。そうわかるのは、例の彼が私のサイフをスったご当人ごと持ってきたからだ。
 こちらはありがとうございますと返した。しかし、これも私の性、口からお礼させてくださいなんて言葉を吐いてしまった。
 今回はこうなのか、これを仕組んだ上位存在はたいそう暇なのだな。
 全くの無駄なサイクルはいたちごっこになって、私としては私個人のゲームのようになっていた。
 次々に綺麗なさくら色を標本の蝶の羽根をむしるように欠片にかえた。

 そして、思考の片隅に生まれた疑問。

 彼が何度私を好きになってくれるのだろうか、と。

 懐かしい記憶が夢にあらわれる。
 母は私を産んで暫くして、父から自分への“愛”を抜いたそうだ。後に私を連れて離婚した。
 今だ。そう感じたそうだ。いいひとと結ばれその象徴の私ができた後に成熟したつややかな愛と母はそう呼んでいた。
 手に濁った血のように所々が欠け、紅い煮崩れしたものを持ちながら。
「馬鹿じゃないの、母さん」
 汗が皮膚の裏まで這ってくる。寝返りをうって記憶を、やましいことなどありはしないのだとベールを脱ぐように私は私の感情を抜いた。


 お礼の日から幾度か、気が合ったふりをして彼と食事を共にした。口に馴染まないよう彼の名前を、私はほとんど呼ばなかった。
 ドレスコードのある高級店の個室。彼と私の座るテーブルの周りは神殿かというくらいアイボリーのカーテンがさがっていた。
 つうと音をたてながらとろりと私の肌をゆっくり走ったもの。悪寒。
――母の腕が私の顔に伸びる。叩かれる。こらえる。反対側からの圧力で私の首は締まっていく。反射的に私は動く。ぼとり。あ、私にもできたんだ。この前テレビで見た花の形をしていた。弔うようにすり鉢にそれをいれた。ごりごり。手にべったりついた赤い粉は息に巻き上げられて、空気に触れて消滅した。
「大丈夫かい? 今日はどこか心ここにあらず、って感じだな」
「なぜか……今日は昔のことを思い出してしまって」
 私の最深層の欠片。
『運悪く』数多のうちの一つその人の核となる感情を抜いてしまうと死ぬのだと母は言っていた。例えば信念とか座右の銘とか。見事なダブルブル。
「ごめんなさい、私、自分が思うほど寝れていないのかも」
 私が今まで抜いていた“恋”。
 ずっと続くのは別の何かがあるからじゃない?
「今日は早く切り上げようか。映画はまたの機会にして」
 この後のプランを話し合っていたらデザートが運ばれてきた。
 フランボワーズづくしのケーキ。
 たったこの1切れに私は泣くのだ。
「ここのケーキは絶品だよ」
 彼が銀のフォークを手にしたとき、計ったようにウェイターが入ってきた。
「お楽しみのところ、誠に申し訳ございません。スターフェイズ様にお取次ぎをと」
 今日の仕事は休みじゃないの、という言葉はそっと腹に戻した。
 いい友人の体で場をとりなして、彼の罪悪感が少しでも減るならと笑みをつくった。
「僕から誘ったのにすまない。君を家にすらとどけられなくて。後は」
 君の好きなように――。
 そう言って、彼は店を去った。支払いはいつしたのかわからないが、済んでいた。


 夜をタクシーのなか、道のわるさに揺られ、家に着いたとき私に、コロンの残り香すらかぶりを振っていた。
 その夜、私は思ったのだ。
 私の好きなようにとは、どういうことかと。


初出 2016
書いたあとでシュガシュガルーンやんけ……!と気づきました。わかった方は仲間ですね。掲載しているものでは当サイトで一番古いお話です。

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