A
「なまえちゃん、わたしアイドルになるの」
それはなんでもないことと、なんでもないことの間に挟まれた。これ以上ないくらい簡潔な一言にまわりの音が遠のいた。友人が突然雑誌やテレビに出始めて戸惑わないようにという配慮ではなく、私が誰にも言わないという信頼で得た一言だった。あと普通に真乃も誰かに言いたくてむずがゆかったっぽい。
真乃の発言は決定事項で、デビューは数週間後で、初めての曲がもうすぐ出来上がるらしい。それはゴールデンタイムからは外れているけれどテレビで歌うことにもなるらしい。私とこうやってファミレスでお茶したあとはダンスレッスンが控えているみたいでたまに壁にかかっている時計に視線が流れていた。
最近予定が合わないことに気づいていたけれどしばらくすれば落ち着くと思っていた。
真乃は何も言わない私をよそにレモンソーダのストローを口に運ぶ。真乃の1杯目はホワイトソーダで今のコップは2杯目だ。
ドリンクバーには「モクテルを作ろう!」という張り紙がボタン横にしてあって、それを見て好奇心に負けてできた混ぜ物は、コーラの配分が多すぎてどす黒い色をしている。
私より、きっとクラスの誰より純粋な真乃が心配でたまらない。ほんの数分の間に何度も会話には、知らない人の、今後私は会わないだろう人の名前が飛び出す。プロデューサー、ひおりちゃん、めぐるちゃん。こんなに可愛い真乃をアイドルにするとか見る目あんじゃん誰?
「事務所の人も、みんなやさしいよ」
私は真乃が悪いひとに騙されていそうで、こわかった。優しいのは商品がとくに壊れやすいからじゃない?
自分を商品にすることは、大切に扱ってもらえる反面、傷つくのも自分なのだと思う。
有名税の名目で噂の的になるし、もうどこか別の世界の人になってしまうかもしれない。
アイドルというのは、輝きに満ちている。
リアルに幻想を継ぎ足してアイドルは生まれる。レンズを一枚通すだけで見え方は変わってしまうのに。流行り廃りが激しいところにわざわざ足を踏み入れる必要なんてある?
目立たないでいようよ。
もう自分でもわかっている。めちゃくちゃに嫉妬している。幼稚だと思う。真乃に「特別」ができることに。楽しそうに他の人の名前を呼ばないでほしい。目の前に私がいるだろその人誰なんだよ。ファンが増えてみんなが似たようなことを言って、それとは似て非なるこの感情にも名前がつけられるかもしれない。
真乃の世界が広がれば、同じ学校のお友達という枠にしかいられない。真乃から見ればそんなことないんだろうけど、やっぱりアイドルの仲間は「特別」になる。むしろ、アイドル候補生として出会ってそれから友達になれるのだからズルだ。今の箱庭みたいな30人そこらしかいないクラスで楽しくやってこうよ。
友達の喜びを素直に喜べなくて自己嫌悪にじわじわと襲われる。でも、真乃がアイドルになれば、誰とも付き合わないから私はその分安心できるのかもしれない。
歌って踊る真乃が好きなんじゃないよ、今のままの真乃が好きなの。この日常のふとした瞬間に溢れる輝きは独り占めできなくなる。世界に拡散していく。
でも私のことだからアイドルの櫻木真乃のことも好きになるよ。真乃はきっと何処に行っても鳩とお話しする真乃のままなんだよ。私はわかるから。今焦って告白したって意味ないこともちゃんとわかってるよ。
今まで順番は無かったのに何もしてもこれから私は二番手になる。アイドルの肩書きが先に来る。
もしいつか学校での真乃の様子を聞かれたら当たり障りのない返事をしよう。それくらいは許されていいはずだ。
「わたし、もう行かなきゃ」
いつも通り、衝撃のアイドル宣言のあとはつとめて他愛のない話をしていた。その裏で私はぐちゃぐちゃになっていたのだけど。
おめでとうと、頑張ってねの気持ちを込めて「おごる。先に行っていいよ」と声を掛ける。
失恋の記念品なんてないから、私がお代を持って未練を形に変えた。
少なくとも私の前では、流す汗はダイヤモンドで、トイレに行かない生き物にはなれないよ。私はずっと真乃の友達でいる。