待合室

 手が綺麗だった。たまたま目に入ったテレビには伊集院北斗が映っていた。前で組んだ手は大きくて相変わらず羨ましかった。
 人伝てに辞めたと聞いてあの力強いピアノがもう聴けないのだと思うと残念だった。交流があったわけではない。たまに音楽室から聴こえてくる彼の音を楽しんでいた。お互い、存在は認知していた。多感な時期でなくても同じ畑の人間は気になるものだ。
 中学では賞を取ったせいでクラス中にピアニストであることが知れていて合唱コンクールのための練習をしなければならなかった。ある日ピアノの前に座ると、じんわり温もりを感じてついさっきまで先客がいたのがわかった。椅子の高さから自分と背丈の同じくらいの女子だと予測して、たいして気に留めなかったが、あとから練習時間はクラス順に組まれていたのに思い当たった。私の前にいた人間は伊集院北斗だった。
 ある程度形になるまでは家で弾けばいいから、コンクール直前でもないのにわざわざ放課後に残って練習する意味はさほどない。当日引くピアノを理解するため、完璧に近いように仕上げるためだろう。彼はピアノに真面目な人間だった。
 だからといって椅子の高さを変える意味はわからない。その高さは私にぴったりで、コンクールにこの調整ができればとよく弾けただろう。彼のほうが脚が長いから絶対に違う調整になるはずなのだ。
 何かの偶然でそれ以上のエピソードはない。ピアノを取ってなお活躍できるなんて神さまはこの人をさぞ丈夫に造ったのだな。ずれのないピッチで歌を聴かせて、キレのあるダンスをして、カメラに抜かれる表情で、全部使ってファンを喜ばせて、インタビューではここにいるのはメンバーのおかげなんですと笑顔を見せる。失って得るものはない私にはわからないことだ。




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