夜は君だけ

※先天性女体化

 ベッドサイドのミニテーブルに要るものは全て用意されていた。新しいコットンに手をつける。時刻では日付を越えたくらいだろうか。私たちは深い青の中で静寂に包まれている。
 テーブルを挟んだ私の真正面で、帽子を脱ぎ、ベッドに座ってじっと手元を見つめているキャプテンはあどけない顔をしているように見えた。
 桜色の爪は四角く整えられて綺麗なかたちをしている。
 片手が終われば反対の手を差し出されてそれに従う。
 刀を振るい、敵をバラバラにしてしまう手であり、私たちを守ってくれる手である。
 一本ずつ丁寧に濃い赤の色が残らないように落としていく。ハートの名にふさわしい赤い色は、キャプテンにホリデーのときに贈られたもので、贈り主はすぐにばれてしまった。特に隠す気はなかった。普通に売られているものより小さいポリッシュが複数入っている限定パッケージ。本人に渡せない、もしくは受け取ってもらえなかった場合は自分用になる。自分には色味が濃くて使えないと知っていたけれど、「普段同じポリッシュしか使っていない彼女がもし」と想像して、気づいたら手元にはショッパーが増えていた。お気に入りの香水と同じで、その色しか使わない人だったらと考える余裕は無かった。感謝の気持ちですと言えば偽りはない買い物だった。
 ホリデーの翌日にキャプテンの私室に呼び出されて二言三言交わした。それから度々ネイルの任務を仰せつかり、すらっと細い指のやわらかな体温を掌に感じられる時間ができた。うまく塗れるように他のクルーにも時に条件をつけて練習に付き合ってもらった。
 キャプテンの気分に合わせて色を選ぶ。大抵ワンカラーである。キャプテンに塗る手前、自分がやってないのは変だと思って、調理や皿洗いの当番でないときはできるだけ指先に色を加えた。
 キャプテンは体温が高かった。そう思ったのは私だけみたいで、イッカクに私が冷え性なのを指摘されて、だからネイルを塗る前には彼女の手まで冷えてしまわないように指先をあたためておくことにした。
 すると、長さや形はどうするか、色はどれがいいか、そんな基本事項と軽い世間話しか交わさず、ほとんど最低限の会話だけで成り立っていた時間に変革が起きた。冷え性が改善したと思われて少し褒められたのだ。口元の僅かな緩みでときめいた。この至上の時間がいつ終わっても名残惜しくないよう、そも口数が多いほうでない彼女の居心地も気にして話すのを意図的に控えていた私には十分すぎるほど意味があった。この時間だけは思考にしろ視線にしろ何かしら私に向けられるものがある。
「今日はどの色にしましょう?」
 少しでも長く一緒に居たくて、完全に落とし終わってから聞いた。
「じゃあこれ」
 ベースを塗ったあと、余分な液をガラスのふちで落として淡いオレンジがのった小さなはけを手前に引く。彼女のためなら毎日やったっていい。キスのひとつでもしたいくらい、私が童話のようにこの手を取ったままかしずいてしまいたいくらい彼女は愛おしかった。戦場で見せる凛々しさや力強さは影を潜めて代わりに水を向ければ過去にまで手が届いてしまえるほどのたおやかな弱さがあった。
 キャプテンのベールを剥いだ気になって忠実な部下でいられない――私室に迎え入れられたときからそれはどだい無理な話だったかもしれないけれど、そんな自分に薄ら嫌気がさしていた。
 口を開けば、一生懸命蓋をしている自分が頭をもたげて、部下の私の口を使ってしまって彼女の側にいられなくなるかもしれない。潜水艦の閉鎖空間でも、恋している私は凪いだように穏やかだった。クルーとして私は既に彼女のものであったし、彼女が有無を言わせぬ圧倒的な力と裏腹に案外可愛いものが好きなところ、梅干しが嫌いなところといったギャップを持ち合わせて私をおかしくする魔力を発する限り、私はその魅力の浅瀬で我慢できる。
「はい、乾くまで待ちましょう」
 彼女は短い返事のあとに私の名前を呼んで、横にくるように指示した。私はポリッシュの蓋をしっかり閉めて隣に座る。彼女の頭が私の肩に乗せられる。この瞬間だけ座高が高くてよかったと思う。彼女は目を瞑っていた。毎度のこの行為の真意はよくわからないが、誰かが側にいて体温を実感できるのは暗い海では特別なことだ。船に乗る人間はみんなそれを知っている。もしくはどこかで知ることになる。
 色の層が増えればもっと時間がかかっていいのに。ラメだって使えばいいのに。
 乾いたのを確認してトップコートを塗って、また待って、甘皮周辺にオイルを垂らして手に塗り込む。レモングラスの香りのするクリームも塗ってもらう。
「はい、これで終わりです」
 電灯の光をオレンジの爪が反射するのを眺める彼女は目を細める。おやすみの挨拶をして部屋の扉を閉めると完全に私は一介のクルーに戻る。



 戦闘のある日は実はちょっぴり嬉しい。トイレから出たあとに通路に沿って列ができていたのを見たときと同じくらいのラッキーさを感じる。この船は小競り合い如きでは潰されない。
 戦いのあとは三日や四日にいっぺんの訪問が増えることがある。戦闘でネイルが剥げたり小さな傷ができたのを修復するために呼ばれるのだ。一日多くキャプテンと共に過ごせる!
 敵船から奪った宝を山分けしているときに私はそのことばかり考えていた。欲しかったカメオのついたブローチは人にくれてやった。
 その夜私は呼ばれなかった。そわそわしていただけ恥ずかしかった。
 翌日キャプテンのネイルを横目に見たところそこには傷ひとつなくて目を疑った。誰にしてもらったんだろう。ベポはあのはけを持つのが難しいから候補から外してと思考を巡らせて腑に落ちる。自分でやったのか。短期間に何度も塗り直すと自爪が弱くなるって言ったのに。
 私が呼ばれたのはさらにその数日経ってからだった。もう綺麗なバラみたいなオレンジ色はまだらに残っているだけだった。
「急に寄港する必要があって忙しかったとはいえもっと早くに来てくださいね」
 コットンに除光液を含ませて丁寧に液が皮膚に触れないように爪に当てる。
 一拍置いて、彼女は冷静にそのことなんだけどと続けた。
「あんたの見て覚えたからもうひとりでできる。今日で最後でいい。今まで助かった」
 声は耳から入って脳にしばらく留まった。文字にしてやっと理解する。始まりも突然なら終わるのもそうなのだ。
「えっと、では、今日は私が選んでもいいですか?」
「ああ」
 ポーラータングと同じトーンの黄色を選んだ。私が唯一自分用に使える色であり、彼女のよく着ている色でもある。
 手早くベースコートを済ませて、黄色を塗る。ポリッシュ本体のサイズのせいではけも小さくて塗るのに気を遣う。最後だと言われたから余計。でもこれまでの経験は無駄ではなく、むらなく出来上がった。乾くまでまた私は肩を貸した。
「乾いたんじゃない?」
 彼女はちょんと親指で中指の爪の表面を弾いた。
「その動き、乾いてなかったらやり直しになるんですからね!」
 彼女は悪いとは言うものの言葉だけだ。
 几帳面に並んだポリッシュの中から茶色と白のものを取る。そのあと髪からヘアピンを抜いて、くの字に折り曲げた。ケースに数十本入った安いものなので数本ダメになるのは平気だ。丸くなっているヘアピンの先で、右手人差し指と小指に白いドットを描き、親指には小さいドットと大きいドットを繋げてクマのかたちにする。今使ったヘアピンの反対側で薬指に彼女お気に入りの帽子を見立てた茶色のブロックをつくる。左手も同じ柄で指だけ変えて模様を描いた。精一杯の抵抗。待ってください、私まだできます。必要ならジェルネイルはオペに邪魔というならネイルチップだってスカルプネイルだって覚えます。とは口が裂けても言えなかった。
 プラスアルファの勝手な作業に没頭している間、彼女の顔を伺うのを忘れていた。怒られるかもしれない。
「か、かわいい……!」
 頭上からうっかり漏れ出た小さい声がした。可愛いのは船長である。表情が緩んでいる自覚があった心を無にして視線を上げる。目がいつもより開いてきらきらしている。
「触っちゃダメですからね!」
 こくこくと頷くのはほんとうに反則級だ。恐る恐る疑問を投げかける。
「まだ、私が必要なんじゃないですか?」
「そうだな。覚えることが増えた」
 彼女は笑みを隠さなかった。手を掲げたり指を折ったりして角度を変えてネイルの出来を確かめている。
 その姿を見て私は上機嫌だった。これからもキャプテンとの時間が約束された。はしゃぐのをじっと見つめていたから容易に目が合う。大きな目はマッチ棒が余裕で乗りそうなまつげにふちどられている。ぱちぱちと効果音が鳴りそうなかわいい瞬きのあと、顔を綻ばせた。
「かわいい」
「次までに他のデザインも考えますね」
「頼む」
 素直でかわいい。やっぱりキャプテンが嬉しいなら私も嬉しい。
「次の島で新しい色選びましょうね」
 結局その日はふたりで次にやるネイルの案を考えて夜更かしすることになった。部屋に戻ろうとしたらもう少しと引き留められてだいぶ長く居座ってしまった。



 キャプテンの部屋の棚の一角ポリッシュが占領していく。その面積が増えるたびキャプテンの中での私の居場所が広がるようで、次は何色が加わるのだろうと密かに楽しみにしていた。
 キャプテンのネイルの色を見て、似ている色味を連想する。普通逆だ。海鳥の羽や上陸した島の中心街のレンガ、夏島に茂る草木など。色彩の記憶は旅の記憶と直に紐付いている。目に触れる色が一層いきいきとして見える。
 プロでもないし、私にできるネイルデザインは限られていた。それでも彼女は技術ではなくて私と居る時間のほうに重きを置いてくれたのか新しいテクニックがなくても未だに一緒に夜を過ごしてくれる。思い上がりか。
 部屋に行けば、当たり前にテーブルの上に手を差し出してきて「グラデーションにして」「今回はニュアンスネイルがいい」「このシリーズのこの三色で」などその時々によって指定はすっかり完璧だ。
 船が平和で暇だったからいつもより早い時間から始まり完成も早かった。
「成長しま……したよね。先生嬉しい」
「また敬語出てる。先生雇った覚え無いけど。そうだ。あんたのネイル、今日はあたしが塗ってあげようか?」
 少し剥げてきてるしと付け足された。願ってもみないことだった。
「えー、お願いしちゃおうかな」
「見てて」
 慣れた手つきでテーブルの上の瓶が入れ替わってあっという間に彼女と同じデザインになる。私がしたのと変わらないラベンダーに金の、まるで陶器のカップを思わせるフレンチネイル。線の太さが均一で何ならキャプテンは私よりも上手い。数ヶ月前にはみ出してご機嫌斜めになっていたのが嘘みたいだ。
「どうでしょう。先生」
 どの時代でも人は上目遣いには弱い。
「免許皆伝です、完璧です」
 得意げな顔をするのがまた可愛い。この前、文字通り手の空いていたシャチがキャプテンに付き合わされていた。男性の爪は大きくて「塗りにくい!」と理不尽な言葉を受けていた。シャチの尊い犠牲はここで活きたよ。
「ね、あたしとお揃い」
 彼女は首元に手の甲を持ってきてこちらに見せつけた。なんだそのあざとさは。狙いを定めるような目をする。
鼓動が跳ねる。
「好きになっちゃいますよ」
「もう好きでしょ」
「それはもう。この船の人間であれば勿論イエスって答えます」
「クルーじゃないあんたは?」
「と言うと」
 私はこの問いに対する答えを持っていなかった。肯定も否定も望み薄な未来のことはできるだけ考えるのを止めていた。他のクルーにバレていたら既に伝わっているか、いずれ彼女にまで伝わってしまう。その場合は意を決して打ち明ける。何かことを起こすまでは見守られているだけの可能性もなくはないが、お節介を焼かれる側である自覚があるから、わかりやすいとその内容は自分の気持ちに沿うかはともかくサポートが入ると読んでいた。
「とぼけないでよ」
 ミニテーブルにまだポリッシュを塗ったばかりの手を据えて私は困って彼女を見つめた。
 彼女の指が私の輪郭をなぞった。触れられた部分に意識が集中する。猫を可愛がるのと同じ優しい触れ方だ。滑らかな指は頬へ顎へと往復する。私の瞳が泳いで動揺を見せると。ようやく往復は止まって、そのまま顎を掬われる。
「あのね、いいことを教えてあげる」
 顎に当てたのと反対側の手を私の眼前に持ってきた。電灯の光が映り込んできらきらっと閃いた。
「これ前に教えてくれた花の色にした」
「……私は今のこのささやかな時間で充分です」
「あたしは足りてない」
 ぴしゃりと言い放って顎にあった手が離れ、くちびるを撫でた。流れる所作で額を弾かれた。痛い。
「勝手にキャプテンと部下の思い出にすんな」
「違います。ただの部下と、この世で一番可愛くてかっこよくて強い船長の思い出です」
「この減らず口」
 頬をつねられた。しかも両方。絶対に見られた顔をしていない。やっぱり夢じゃない。テーブルに肘をついて私を見つめる彼女の瞳には私しか映っていない。贅沢すぎる。
「でも。キャプテンには大好きだった人がいるんですよね?」
 目線が左上に逸れる。
「その人には、誰も敵わないから、安心しろ」
 堂々の敗北宣言。敵うとは思ってもいないから嫉妬してしまう。何せキャプテンの大好きな人なのだ。同じくかわいくてかっこよくて強い人に決まっている。
「コラさんは大好きだけど恩人で、あんたへの気持ちとは別」
「こんなことあっていいんですか? 夢じゃないですか?」
「呆れるな。あたしをなんだと」
 こんなにあざとい人が隣にいてくれるなら誰より欲張りになってしまう自信がある。期待していいんですか。テーブルに足が当たってしまって上に乗っかった小瓶が倒れた。静かな空間に音は案外大きく響いた。元に戻そうとして腕を伸ばすと、同じように瓶を持ったキャプテンと手が重なる。その拍子にかパンジーの色のネイルがよれた。金の真っ直ぐなレールが外れてたわんだ。あっと声が漏れる。そんなことを気にしない彼女に私の手は握り込まれる。こちらが力をこめても解放されない。
「ほんとネイルしててよかったね」




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