そしてはじまり
いじめの消えた教室で、僕はいつの間にかヒーローのように扱われるようになった。僕にとってそれはすこしむずがゆく、居心地が悪いことだった。僕はやっぱり放課後が楽しみだった。
「うまくいったんだ、良かったね」
みどりは近頃アルペジオの練習ばかりしている。放課後の音楽室に、弦が控えめに震える音が響く。
「うまくいった、っていうか……、いままで僕が涼一のこと変に避けてただけだから、仲直りした、って感じかな」
「でも、付き合ってるんでしょ?」
「つ、き……合ってる、の、かな」
自身のことなのに言いきれない僕は、まごついた返事をかえした。みどりは僕の顔を覗きこんでにやにやと意味深に微笑んでいる。
「お互い好きなんでしょ? キスもするんでしょ?」
「え、……まあ……うん」
正面から問われると、逃げ出したいくらい恥ずかしくなってしまう。みどりの力強い瞳の前で逃げ出す術などない僕は、耳まで真っ赤にしたまま俯き、初めて自分から口にする。
「うん、……付き合ってる」
「でしょ?」
ようやく素直に認めた僕に、みどりは満足そうに笑いかけた。
「デートしたりするの?」
「うん、この前は水族館行った」
「えー、いいなー羨ましい」
みどりは首をかたむけ心底うらやましそうにうなった。僕とみどりは人に言えないことをいくつも相談し合ったため、とても親密になっていた。教室でのみどりはいつも神経質そうな顔をしているけれど、みどりは音楽室にいる時、流行りの芸人のマネをしたりもするほど気楽に振る舞うのだった。
「しあわせでしょ」
ぱらぱらと、なめらかに動く右手の指先を見下ろしながら、みどりは僕の胸を満たす感情を見抜いてしまう。
「……うん」
「涼一さんってかっこいいの?」
「かっこいいよ、世界一」
「あはは、ノロケだ」
「……うざくてごめん」
「別にうざくないよ。もっとノロケてもいいよ」
「えー、あ、じゃあ、こないだ涼一と一緒にごはん作ってたんだけど」
「うんうん」
はじめから兄に愛され、血縁者に恋をするつらさを知らず、簡単に両思いになった僕は、みどりの前で浮足立った話を繰り返した。幼かったのだ、ものすごく。
「……あ、やばいもう六時だ」
「用事あるの?」
「ん、今日涼一と夕飯食べ行く約束してて」
「あ、そうなんだ」
「ごめん、先帰るね」
「分かった、わたしはもうちょっと練習してく」
「うん、それじゃあ」
「じゃあね」
帰り道は先走った幸福感で満たされていた。涼一が今日連れて行ってくれるのは新しくオープンした中華料理屋だ。エビチリを頼もう、とメニューを見る前から決めている。
僕の話に対して、みどりがごく自然に「すてきなお兄さんだなあ」と呟いた。相槌というより、独り言のようだったから僕は余計に嬉しくなった。他人に涼一を褒められるのは、自分のことを褒められるより嬉しい。
幼かったのだ、ものすごく。
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