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成長痛(3)


みどりがいない。ギターの音が響かない音楽室は白々しいほどの静けさがこもっている。そうこうしている内に、学校中に生徒の気配が集まりざわめきはじめた。知っている限りみどりは毎日誰よりも早く登校しているはずだった。思わず不吉な想像さえしたが、みどりはホームルームが始まる数分前、さっぱりした笑顔でやってきた。

「おはよ、洋二郎」
「おはよう、遅かったね」
「準備してたら時間になっちゃって」
「準備? なにかあるの?」
「今日、お姉ちゃんと横浜に行くんだ」
「え、今日?」
「そう。旅行誘ってくれたの」

話題は唐突で、だからこそみどりにとっても期待と衝動に溢れるものなのだろう。雨の日も風の日も静かにギターを抱え、休み時間でも決してふざけたり慣れ合ったりしないみどりが、新鮮に声を弾ませている。私物のギターにいつものように触れながらも、音を奏でるには心のざわめきがうるさすぎるようだ。

「横浜かあ、夜に行くの?」
「最初はそういう予定だったんだけど、それじゃちょっとしか一緒にいられないから抜け出すことにしたの。三泊したいって駄々こねて、明日と明後日も学校休む」
「え? 今日英語の単語テストあるでしょ、成績に関わる大事なやつ。あと明日は学校総会もあるし」
「いいの。もしこの旅行の間学校から離れたことで将来がぐちゃぐちゃになっちゃってもいいの。それでもお姉ちゃんと一緒にいられるほうがうれしい」

痛快なほどにポジティブな言葉を掲げるみどりは、興奮気味な自身を省みるように深呼吸したあときゅっとくちびるを噛んで、文字通り噛みしめるように言った。

「洋二郎、わたしと姉の関係に未来があると思う? 正直に言っていいよ」
「え? い、いや……どうかな、あると言えばあるかもしれないし……」
「わたしもそう思う。きっと未来のことなんてなんだってそうなんだろうね、あるかもしれないしないかもしれないし、そんなの分からない」

みどりの言葉は現実を見据えるようなときにさえ希望のきらめきがめいっぱいつまっていて、僕は眩暈を起こしそうになった。涼一と自分のあいだの仄暗い隙間ばかり見ていた僕には、みどりが口を開くたびに放出されるエネルギーが眩しく力強く、跳ね返されそうになる。

「姉はきっとこれから先もっとわたしなんかに割く時間はなくなるだろうけど、仕方ないことについて考えたくないの。それなら、一緒にいれるあいだにどんなことが出来るか考えたい。横浜で買い物もしたいし、観覧車にも乗って、一緒にお風呂に入って同じベッドで眠りたいし」

きっとみどりは今この場にただ立っていることにも耐えられないくらいに胸が躍っているのだろう。ホームルームの開始を告げる鐘が鳴るまで、惜しむことなく理想を語っていた。


それぞれの教室に戻ってからも、耳元でみどりの言葉が鳴っているような気がした。みどりは臆することなく自分のしたいことを並べていくのに、そこには清潔さしかないのが、あまりに新鮮な衝撃だったのだ。

ぼんやりしている内に時間は進み、三限の授業がはじまった。教室に入ってきた先生を見て思わずぎくりとしてしまう。三限は期末テストへ向けて保健体育の座学で、森先生の授業だった。いつも見ていたはずの立ち姿にも顔にも、音楽準備室で見た生々しい姿が重なり真っ直ぐに顔をあげられない僕をおいて、先生は授業に取り掛かる。

「えー、今日は保健ということでビデオを見てもらう。おかしいビデオかもしれないが、笑ってないでちゃんと見るんだぞ」

そう言って先生が映し出したのは、生殖に関するビデオだった。子供の大切さを謳うオープニングから、中学生の悩み問題、そして恋愛の話へ流れていく。ちらつく「セックス」という慣れない影に、友人たちはお互いの顔を見合ってひそひそ呟き笑いあっている。先生がどれほど忠告しようと、その話題について冷静に向き合えるわけがないのだ。

そのとき、先生がカーテンの隙間からグラウンドを見おろし、呟いた。

「なんだありゃ。堂々とサボりやがって、連れ戻してこねぇと……」

ビデオはいよいよ男女の性器がどのように働くのかという内容になり、クラスメイトの大半は内容に夢中になっていて先生の呟きに耳を貸さず、先生が教室を出ていくのも気に留めなかった。

そっと窓に寄りカーテンの隙間からグラウンドを見おろすと、授業中にも関わらず帰路を目指すみどりの姿があった。心は一直線にお姉さんに向かっているのだろう、上から見おろして分かるほどに楽しげで、だからこそ先生の目を引いてしまうのだろう。僕は慌てて教室を飛び出し、足早な先生にようやく追いついたのは階段の踊り場だった。

「せ、先生!」
「ん。どうした」
「あ、あの、教室に戻って授業を続けてください」
「あぁ、ビデオはまだ続きがあるだろう。それを見ていてくれないか?」
「いえ……先生もいてください。わざわざ呼びにいかなくても……」
「ひょっとして、お前あの女子生徒の味方をしたいのか」

先生はからからと笑った。茶化されるのは恥ずかしいけれど、この間にみどりが一歩でも学校から遠ざかってくれていればいい。颯爽と登場したお姉さんの車が、みどりを現実の手が届かない遠い場所までさらってくれていたらいい。

「なんだ、好きな子なのか?」
「い、いえ。そういうわけじゃ」
「追いかけてくるだなんて、ずいぶん彼女のことが大切なんだなあ」

森先生は必死な僕をさらに茶化して笑う。無理もないのかもしれない。僕たちには大切なこと――進学もろくに稼ぐこともできなくて枯れて朽ちて死ぬことになろうとも、それ以上に優先しなければいけないことが沢山あり、そのうちの大半が大人から見たら本当にくだらないことだ。

「そうですね、彼女にも大切な人がいて」
「おいおいノロケかよ、勘弁してくれー」
「先生にも大切な人いませんか……準備室とかに」

森先生は眼球を震わせじっと僕を見て、真意を汲み取ろうとしている。僕に脅迫するような気は一切なく、ただ、共有を願っていた。

僕は先生やみどりに、兄のことが好きで好きでほんとうに好きで好き過ぎて最近は気持ちが高ぶりすぎてもっともっと深く触れたくてたまらなくてくっついていると勃起もするしむずむずして正気ではいられなくなるような気がするし自分のことがすごく怖いし気持ちが悪くていつ爆発するのか恐れるあまりに兄の目を見るのさえ怖くなっている、ということを打ち明けたいのだ。そしてそんなのおかしくないよ、と言ってほしかった。

先生は視線を外し、喉の奥を鳴らすように呟いた。

「教室に戻るぞ」

いつかの朝、準備室の気配に気づいたときにみどりが言っていたことと同じだ。本人が納得してなにかを信仰するとき、他人の正論なんてただの雑音だ。

教室ではビデオの再生がまだ続いており、性行為の仕組みとそれにまつわる倫理が説明されていた。その行為はすごく危険である、命に関わる重要な行為である、しかしお互いの気持ちを確認し合うものでもあるのだから、慎重に向き合いなさい。


ぼんやりとした一日を終え帰宅したとき、涼一は自室にいたようだが物音に気づきリビングまで迎えに来た。そして僕を抱きしめ、おかえりと優しく囁いてキスをした。

涼一はどんなときでも一寸の狂いもなく涼一で、僕はそれがふしぎなことなのだと、最近ようやく気がついた。

「ねぇ、涼一はいやになることないの?」
「……洋二郎のことを?」

強く巻き付いた腕をゆるめ、涼一はふしぎそうに僕を見つめる。好きな人へ真っ直ぐ向かっていくみどりと、教室に戻ったあと改めて見たビデオの内容が脳内で混ざり合い、連日必死に堪えていた言葉が限界を超えてしまった。

「僕は、涼一のことを好きになるたびに自分のことが気持ち悪くてしかたなくなるんだよ。なにをしてもらっても、もっともっとって強請って、自分がどんどん醜くなってく感じがする。きもちわるい」
「そんなの毎日のことだよ」

きっと放っておけばとめどなく溢れてしまいかねない感情を遮ったのは、涼一の静かな、しかしかたくなな一言だった。思わず顔を上げたとき、涼一を普段とは少し異なる角度から見上げた。


「俺は毎日洋二郎のことを、どんどん好きになってその代わり自分のことがどんどん嫌いになる。でもすっごく幸せだよ、洋二郎は今日もかわいいね」


金属的に尖った感情を飲みこみ、消化し、要らぬものは捨て要るものは養分にして、口からは柔らかい言葉だけを吐く。そういう正気でないようなことを、涼一はずっと、悟られないようにこなしてきた人なのかもしれない。生を受けた瞬間からずっと一緒に居たのに、僕は今頃になってようやく気がついた。


「洋二郎、気持ち悪くなんかないから考えてること教えて?」
「きもちわるいよ……」
「そんなことない、ねえ教えて。してほしいこと、全部言って」

言いたくないと伝えれば、涼一は無理強いはしないだろう。ごまかす手段だって少なくないはずだ。

「……あたま撫でて」

声は恥ずかしいほどに震えていて、いっそ届かなければいいと思ったが涼一の手が伸びてきて頭をぽんぽんとさすられた。頭の上というか後ろというか、よく分からないその部分。そんなところにスイッチがあったのかと思うほど突然に身体が熱くなり、あたまがふわふわしはじめた。

「他は?」
「ほ……ほか」
「気持ち悪くないよ、おかしくない。言って」
「キスして……」

ふわふわしていたので自分が何を言っているのかほとんど分からないままでいた。しかし涼一のくちびるはやわらかく僕を塞ぎ込む。

キスの仕方で涼一が気を遣っているのが分かった。夜の自室で性器をこするときには、もっと心臓が互いを引き寄せ合うような激しいキスをする。しかし今の涼一はそうではない。焦れてきた。ちがうこういうことがしたいんじゃない。こういうこともしたいけどこういうことがしたいんじゃないんだよ。唇を離し息を整えながら、困惑に瞳を濡らす涼一を見据えた。


「涼一」
「……うん?」
「……したい」


あんなに熱心に強引に押し込めてきたのに、限界を超えるのは一瞬だ。


「お願い、涼一としたい。お願い」


日が傾きはじめ、リビングに橙の陽光が真っ直ぐ差し込む。みどりはもう横浜に到着しただろうか、お姉さんと代えがたい時を過ごしているだろうか。僕は住み慣れたリビングで見慣れた涼一の顔を真っ直ぐに見つめ、知らない行為に片手を伸ばしている。





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