新月の夜だった。雨がないのが救いだと蘰芭は縁側に腰を下ろす。襷を解いた袴姿は淑やかな女学生のように思えた。
 一日の終わりにゆっくりと夜風にあたりながら物思いに耽るのが「彼女」の日課であり休息のひと時であった。
 星が出ている、と、空を見上げて溜息をひとつ。届かないとは知っていながら、それでも伸ばしてしまう。なにかに引っ張られるような錯覚、否、衝動だった。
 子供らしいと、夫はきっと笑う。父のような、師のような優しい眼差しで。そんな彼のことを思い浮かべながら、己の常盤色の髪を指で梳く。毎日のように艶と滑らかさに気を付けて梳く髪を夫は毎日のように撫でた。綺麗だと褒めるその髪が蘰芭にとって誇りであり、美の象徴だった。夫の絹糸を集めた黒檀の長髪も、蘰芭にとって誇りだった。なぜなら、彼女がせっせと手入れをしているのだから。
 時折り、そんな夫の髪を切りたいと思うこともある。だが、その話をすると夫は「絶対に厭や」と、頭を振る。
「なんで切らなあかんのや、切ったらまた伸ばさなあかんやん。ウチは失恋した乙女か」
 恋に破れた乙女が髪を切ると同時に未練を切るのだとかつての客がきゃらきゃらした声で話していたのを覚えている。いつか自分も涙を流しながら髪を切るときがくるのだろうかと買った鋏はとうとうそんなことには使われず、ただ伸びきった前髪を切り揃えるためだけに使われた。
「アタシが髪を切ったら、どうする?」
 今晩と似た夜に、夫にそう訊いたことを覚えている。夫はううんと首を傾げながら困ったように、「今のままでええよ」と微笑んだ。
「ほんまのこと言うとな、カズラの髪は足まであってええんよ。ぎょうさん長くてええんよ。せやけど、そないなったらウチが厭やねん」
 今度は蘰芭が首を傾げた。長すぎる髪の、何処が厭だというのか。
「文字通り『後ろ髪を引かれる』のは、辛いんとちゃう?」
 すう、と細められた眼差しは穏やかで、それでいていまにも崩れそうな儚さを孕んでいた。ああ、なるほど。

 回想はそこで途切れ、蘰芭はすう、と目を開いた。季節外れの柚子の香りが鼻孔をくすぐる。練香水の香りだ。蘰芭が一番好きな香りだ。
「何時から居たんだい」
「つい今。ちょいと借りるで」
 ふわりと柚子の香りとさらりと視界を満たす黒檀の髪の隙間から籐黄色の双眸がのぞく。そしていつの間にか蘰芭の太腿に頭を乗せて寝転がっていた。
「寝るなら布団の上にしとくれよ」
 くすりと微笑んで蘰芭はそっと夫の髪を撫でる。人形の髪を撫でるような感覚、不変の若さを保つ容姿は蘰芭にとって羨望の的だった。
「おおきに」
 ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべ、目を閉じる。日中に着ているコートと帽子を脱いで、着流しになった夫の無防備な姿に蘰芭は愛しさを覚えた。

「嗚呼。また、切らなくちゃ」

  

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