幸せ赤ずきん [ 28/94 ]

濃い葡萄の匂い。
体重の軽さが分かる小さな足音。
嗚咽と鼻を鳴らす音。
それらに混じって、小さく小さく俺を呼ぶ声。

狼の間の芝生に横たわりながら、ひどくうろたえた様子の気配が近付くのを待つ。
案の定扉のむこうで立ち止まった気配は、泣きながら走ったせいで酸素が足りないらしく、しばらくその場で荒い息をくり返した。

「入って来いよチアキ」

「…やだ」

「思いっきりこの部屋目指して走って来たくせに」

「違うもん」

「分かったから入って来いって。人の部屋の前でベソベソ泣かれたら勘違いされるだ狼牙」

もう泣いてないもん!と切り返した声を聞き流して、(もうって言っちまったらバレバレだ狼牙…)鶏のチュンに触らせてやるぞ、と声をかけると、一瞬間を置いて扉が開いた。

チアキとの間の隔たりが無くなったのは良いが、その途端に濃くなる葡萄の匂い。
どこかの化け猫を思い出させるそれはワインのようで、チアキの頭から足元まで、これでもかと言わんばかりにびっしょりとワインの赤に染まっていた。

「…まあえらくお綺麗な格好じゃねえか。流行りか?」

「違う!ルッチ様が!!私何もしてないのに!!」

ぽたぽたと落ちる滴を気にしているのか、室内に足を踏み入れようとしないチアキは濡れたエプロンを握って目を吊り上げる。
構わないからこっちに来いと手招きして、とりあえずはすぐ目の前に座らせてみた。

「ちゃんとお掃除してたのに、いきなり後ろからばしゃーって!
びっくりしてる内に何本もボトル開けて、笑いながらこんなのにされた!!」

「また豪快に遊ばれてんなあお前は…」

「カリファ様がやめてあげなさいって止めてくれたのに、やめてくれなくて、ふぐっ、ううう…っお酒臭い…」

「で?化け猫はなんて?」

「お、お前は給仕服が似合わなすぎるから、俺がお似合いの色にしてやるって、う、ううえっ」

「目ぇこするなバカ、おら来い」

「うわああああんジャブラあああ!!ジャブラああああ!!」

私悪いことしてないのにいいい!と涙の堤防を決壊させたチアキは、ここに来た当初からこの調子だった。
化け猫の野郎にことあるごとにいじめられ、実家の犬に似てたというとんでもない理由で、日向で狼の姿で昼寝していた俺にしがみついて泣きまくった。
俺も最初は腹は立つし(てめえんちの飼い犬なんか知るか!)意味は分からないし(勝手に泣いてろ!)化け猫くさいし(癪に障る!)、振り払ってしまおうと腕を取った瞬間。

顔を上げたチアキが、大丈夫かと声をかけてしまう程に真っ赤な顔で、目にいたっては溶けてしまうんじゃないかと怖くなるほどに涙でいっぱいで、ついつい柄でもない慰めの言葉なんてしたりして、まあうっかりそのまま懐かれてしまった。

様付けの呼び方は呼び捨てに、敬語はどこかに消えて生意気な口調に、掃除のためでだけ訪れた狼の間は、いつの間にやら避難所に。

「もう意味分かんないよあの人…、絶対いつか殺されるんだ私…」

「お前もお前でよお、傍に寄らないとか逃げるとかしろよ」

「しがない給仕にそんなことできる訳ないじゃん!気が付いたら後ろにいるんだもん!」

「じゃあ抵抗してみるとか…」

「それこそ殺されると思うよ、私。もうやだ!!」

よしよしと濡れたままの頭を撫でて、また泣きに入ったチアキの愚痴に言葉を返し続ける。
……思うに、可哀相な程にひどくバカな奴だ。
あの化け猫が、特にミスをする訳でもない一人の給仕に、何の感情も無しにここまでするはずが無いだろうに。
それも殴る蹴るの暴行ではなく、エプロンのすそを引っ張る、足をかける、無理な注文をつける、持っていたモップを叩き折るなどなど。

表現はどうあれ、執着は執着。

遊ばれているのか、気に入られているのか、好かれているのか。

……全部な気がして仕方ないが、十中八九その通りだろうよ。

「ジャブラ、同じCP9なんだからさりげなく注意とかしてよ」

「俺が何か言ったら、火に油どころか爆薬だ狼牙」

「付き合い長いんでしょ!?年長者がしっかり叱ってやんなきゃ!」

「だぁから、俺がどうこう言っても殺し合いにしか発展しねえんだって」

「これだから暗躍諜報機関なんて物騒な人たちは!!」

その物騒な奴の一人にしがみついて泣いてんのは誰だっていう。
さっきから名前を無駄に連呼して、ワインの混ざった涙でぐちゃぐちゃになってんのはお前だ狼牙。
毎回毎回俺のところに泣きつきに来て、鳥たちや俺の尻尾を撫でまわさないと機嫌を直さないうえ、最近は用も無いのにとびつきに来るようになったくせに。

「ワインくさい〜お酒くさい〜べたべたするよジャブラー」

「言っとくけど、お前がひっつくから俺もたいして変わらねえからな?」

「ジャブラは半裸みたいなもんだから良いじゃん!ネクタイする意味が分かんないもん!」

「ぎゃはははは!泣き止んでも口が減りやがらねえ!」

「うっさいバカ!」

そう言う割には腰に抱きついていた腕をはがして、勢いよく抱え上げて背負う。
ひえええ!?なんてうろたえるチアキの髪から滴が落ちて、俺の肩を濡らした。

「ジャブラ!何!?何すんのいきなり!バカ!!」

「お互い汚れてんなら、2人揃って行水といくか!」

「はあ!?ってジャブラそっちは滝!滝いいいいいいっ!!」

「ぎゃはははは落ちんなよチアキ―!!」

明日も明後日もその後も、泣きながら俺の名前を呼ぶに決まってる。
せいぜい喉が枯れないように、今の内に水でもかぶってろ!


狼の腹の中で幸せになる赤ずきん


「うわああんルッチ様にお菓子食べられた!」
「さすがにそこまで行くとガキくせえぞ化け猫…!」
「甘いもの好きじゃないくせに!もうどこまで私のこと憎んでんの!?」
「……(あいつもこいつもガキばっか!)」

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