苗字名前という女は話の脈略というものをまるで考えない。クラスの話をしていたかと思えば、急に明日の天気の話をするような人だった。今日もいたずらっ子そうな笑顔で純粋無垢な瞳を輝かせながら俺に話しかけてくるのだが、その話題の脈略のないこと。 「もしもの話をしようか日吉」 突然苗字さんの表情が変わった。いや、端から見れば何も変わってないように見えるかもしれないが、その僅かな表情の変化を読み取ることができるくらいには俺は苗字さんの近くにいたというだけの話だ。 苗字さんはにこにこと人当りの良い笑顔を浮かべながら俺との距離を詰めた。何を考えているのかはわからない。俺は息を呑んだ。 「もしも、日吉がテニスをしていなかったら、今何をしていると思う?」 「テニスを…?」 今まで考えたこともなかった。もし俺がテニスをしていなかったら?まず確実に跡部さんと関わりをもつことはなかっただろう。跡部さんとテニスという共通点を逸した俺は彼に近づこうともしないはずだ。向日さんや芥川さんも同様だ。彼らはおろか、テニス部の連中とは目を合わせることもないだろう。そんな俺はその怠惰で判で押したような日々をどう過ごすのだろうか。 わくわくと俺の答えを待ち侘びている様子の苗字さんをじっと見つめた。…そうだ。俺にはこの人がいるじゃないか。そう自覚した瞬間、視界が一気に晴れた気がした。 「俺がテニスをしていなくても、あなたといたと思いますよ」 「…私と?」 「はい。…それとも苗字さんはテニス部じゃない俺には興味がありませんか」 そう意地悪く言うと、苗字さんは「愚問ね」と言って笑った。本当によく笑う人だ。 「では次の質問です」 「…まだ続くんですか」 普段なら仮定の話なんかくだらない、とでも笑い飛ばしそうなものを、珍しい。そして次に苗字さんは俺にこう尋ねた。 「もし明日でこの世界が終わると言われたら、君はどうする?」 「世界が?…そんな馬鹿げた話、仮定だとしても俺は信じませんよ」 「若くんは頭が固いなあ」 でももうちょっとアタマを柔らかくして考えてみてよ。ね?と言って、ひと呼吸置いてからこう続けた。 「その恐ろしい終焉に対して、世界中の学者たちが大変信憑性のある研究結果を発表しているのです。…もはやただの都市伝説では済みません。君ももしや本当に明日世界が終わってしまうのでは、なんて疑ってしまうのです」 よくもこう長々と架空の物語を即興で構成することができるなあ、と感心にも近い眼差しで見つめていると、苗字さんは再び俺に答えを急かしてきた。仕方なしに俺も答えを探す。 「…それでも俺のやることは変わらないと思います」 「地球最後の日にもテニスをするっていうわけ?相手が見つかるといいね」 「…違います」 「………」 苗字さんは余裕の表情で俺の答えを待っている。しかし俺の考えなんて全て見透かしていそうなものだ。苗字さんは末恐ろしい女だ。 苗字さんに顔を近づけるけれど、照れる様子なんて全く見せない。この人には人間としての正常な感情が欠落してしまっているんじゃないか。…もし俺が苗字さんにこんな風に顔を近づけられたら、恐らく素面ではいられないだろう。 「苗字さん。俺は世界の終わりにあなたといたい」 「…それが日吉くんの答え?」 「?はい」 相変わらず先輩の俺の呼び方は定まっていない。なぜかと問えば、どれも呼びやすいんだよ〜なんてへらへらしていた。 「よくできました」と言ってあの近い距離のまま頭を撫でられる。子ども扱いされているようで些か腹が立ったのだが、それを表に出すとかえって子どもっぽい気がしたのでやめておいた。 「じゃあ最後に、」 距離なんてほとんどないはずの俺と苗字さんの間を、ざわりと風が吹き抜けた。苗字さんは今まで見たことのないような顔をしていた。 「もし私と日吉が別れることになったとしたら、君はどうする?」 心臓がどくり、となった。今までの問いの中で最も想像し難い仮定だった。それでも想像せざるを得ない。答えざるを得ない。それを無意識的に強いているのが苗字さんだ。 「そんなことしません。もしあなたに他に好きな人ができたとしても、絶対に離しません。それぐらい俺はあなたを…」 「若、」 「……好きです」 ここまで答えてやっと気付いた。苗字さんはこれらのもしもの話を利用して、俺の気持ちを再確認したかったんだ。わざわざ回りくどい質問をしてくるところが非常に苗字さんらしい。 苗字さんはその腕の中に俺を閉じ込めた。…ときどきどっちが男なのかわからなくなる。 「君の気持ちはよくわかった。君がどれほど私を好いてくれているか、ようくわかったよ」 「………苗字さん?」 その時俺は一抹の違和感を感じずにはいられなかった。風が冷たい。 「…でも私は君の気持ちには答えられそうにない」 「……」 「秤で釣り合う愛が欲しいでしょ?私と君とじゃそうはなれないよ」 「俺は一方通行でも構いません!」 苗字さんがゆっくり身体を離した。俺はそこまできてやっと自分の愚かさに気付いた。もしもの話は苗字さんの気紛れなんかじゃなかったんだ。苗字さんは最初から、すべて考えていたんだ。この仮定の話の意図は俺たちの関係を再確認するためのものなんかじゃない。俺たちの気持ちの差を計っていたんだ。 「好きだよ」 「…俺も好きです。だから、別れるなんて言わないで下さい」 もう何と言っても無駄だろう。もっと早く気づくべきだったのだ。俺と彼女の温度差に。 「…でも私にはちょっと重すぎる。いつか潰されちゃうよ」 「苗字、さん」 最後に、苗字さんは「ありがとう。…日吉若」と言って笑った。フルネームで呼ばれたのなんて初めてだ。それは俺と彼女が他人になる最初の段階に過ぎないのだろう。身体が芯から冷えた。寒い。 ーーー |