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マネージャーでもあった苗字が突然いなくなって更に鳳が部活に出なくなって以来、あのいつも騒がしい向日先輩でさえ口をつぐんだほど部内は廃れたが、鳳が部活に復帰して部内の雰囲気は少し持ち直した。
鳳はまだ万全とは言えないもののサーブのスピードもそれほど落ちてはいなかったし、何より表情が元の明るさを取り戻していた。もちろん先輩たちはそんな鳳を再び受け入れた。そして榊監督が黙って頷いたのも見た。
しかしその代わりと言うべきかはわからないが、鳳が復帰したその日俺は奇妙な体験をすることになる。

「苗字…?」

部員に我先にとタオルを渡そうとしているマネージャーたちの中に死んだはずの苗字の姿を見つけた。始めは目を疑ったが、何度目を擦っても確かにそこに存在するのだ。しかし誰よりも働き者だったはずの苗字はただそこに突っ立っているだけで、絶対に仕事をしようとはしない。
ただ俺はどうしようもなくその存在が気になった。「死んだはずの人間がそこにいる」という不可思議な現象は、俺の興味を引くのに十分な素材だった。
気付いたときには右足が動いていた。タオルを渡そうと引っ付いてくるマネージャーたちをそれを受け取ることでかわし(集団を抜けた頃にはタオルを5枚も所持していたが)、部員目掛けて繰り出したマネージャーたちが過ぎ去った今、人気のないベンチに苗字はいた。
俺が近付いていくと目を見開いたが、すぐに目を逸らし俯いてしまう。本当に、生前は活発だった少女からは想像もつかない顔をしている。

「苗字」
「……ひ、よしくん…?」

名前を呼ぶと、掠れた小さな声であったが確かに返事が返ってきた。

「私が見えるの…?」
「ああ」
「…怖くないの?だって、幽霊だよ?」
「俺は元々そういった類のモノに興味があるんだ。…まさか本当に見えるとは思わなかったが」

そう言うと苗字は些か傷ついた顔をした。…他の奴らには苗字は見えていないんだろうか、誰もこちらを気にしていない。

「ずっと見えてたの?」
「ずっと…?」
「私、今までずっとテニス部にいたんだけど…」

苗字が死んでからそれなりの期間が経ったが、今までここにいたと言うものだからそれはそれは驚いた。俺が苗字の存在を認識したのは今さっきが始めてだったからだ。何故急に苗字が見えるようになったんだ?…というか苗字は、ずっと一人でここにいたのか?

「でも今までは私、自分が死んでるってこと忘れてたの」
「え?」
「おかしな話でしょ?それに部活以外に普通に生活してた覚えはない、けれど私は何も疑わなかった」

おもしろい、と不謹慎かもしれないが思ってしまった。決定的な記憶と判断力の欠如。それゆえそんな現象にだって疑ってかかることができないのか。

「昨日も普通に長太郎に着いて喫茶店に行ったんだよ?」
「昨日……いたのか」
「そこであのアルバムを見て、始めて私は死んだんだって意識したの」
「……」
「そしたらさ、部活行っても誰も私のことなんか見えてなかったのに。おかしいよね。今まで何で気付かなかったんだろう私」

そこまで言うと苗字は静かに涙をこぼし始めたから、俺は慌ててたまたま持ち合わせていたタオルでそれを拭おうとしたが、なぜだか宙をかくだけだった。本当に死んだのか、こいつは。

「でもね、日吉くんと話せて良かった」
「苗字、」
「長太郎の背中押してくれてありがとうって言いたかったから」

このままこいつは鳳に忘れられていってしまうんだろうか。それとも、鳳をこいつに縛り付けておいた方が鳳も苗字も幸せだったんだろうか。

「日吉、一人で何やってるの?」

遠くからでもわかる長身の鳳がこちらに向かってきていた。苗字もそれに気付いたようで、そして突発的にまた自分の状況を忘れていたらしく生前そうしていたように誰よりも早く鳳に近寄った。

「ちょうたろ、」
「跡部さんからの伝言。試合するから早くコートに入れって」

しかし伸ばした手は虚しくすり抜けていく。二人の視線も交わることはなかった。傍で見ていた俺はそれがどうしようもなく哀しくて、またどうにもできない自分の無力さに唇を噛みしめた。


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