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「好きな人がいるんだ」

そう言うと私の向かいに座る長太郎は、私の隣の席の日吉くんに儚げな笑みを見せた。
一切表情を崩さない冷静な日吉くんとは裏腹に、私は落胆を隠しきれずにいた。長太郎とは所謂友達以上恋人未満の関係だった。
確かに最近部活をサボりがちになっていたりと彼の様子がおかしいことには気付いていたが、意中の人がいるような素振りは見せなかった。もしかしたら私が無意識に見ないようにしていただけかもしれないが。

「…ああ、知ってる」
「日吉くんも知ってたの…?私、全然知らなかった」
「…だろうね。日吉が知ってるってことは跡部さんたちにもばれてるのかな」
「そうだな」
「跡部先輩も理由がわかってるから長太郎にあまり強く言わないのね」

マネージャーの私は「ジローを起こしに行け」とは散々言われていたけれど、長太郎が部活をサボることに関しては何も言及されなかった。まあ私としても長太郎にその気が無いのに無理に部活に出てほしくなかったから、そちらのほうが都合は良い。

「でもそろそろ榊監督が黙ってないぞ。最悪退部も考えられる」
「そ、そんなの駄目!!」
「…でも今のまま部活に出たって集中できないよ。特に俺のサーブなんか集中しないと怪我人を出すことになるかもしれない」
「それに関しては私も同意。長太郎の自惚れなんかじゃないと思うわ」
「…いい加減忘れたらどうだ」
「それができないから困ってるんだろ?」

長太郎は自嘲気味に笑うと、次の瞬間にはまた思い詰めた表情に戻る。そして目の前のティーカップに手を伸ばすけれど意識はそちらに向いていなかったようで、ガチャンと派手な音を立てて中身が零れた。
そんな長太郎を見ていた日吉くんは呆れた様子でため息をつくと、店員を呼んだ。すぐに布巾を持った店員がやってきてコーヒーを拭き取る。長太郎は小さく謝ると、ティーカップをソーサーごと端に寄せた。

「言わんこっちゃない、って言いたそうな顔だね」
「…だから今日こうしてわざわざ話を聞いてやると言っているんだ」

日吉くんは良い人だ。長太郎にもそれが伝わったのか、ありがとうと言った。
本当は私は長太郎の好きな人の話なんか聞きたくない。でもマネージャーとして彼を放っておくわけにはいかないのだ。

「俺、名前のことはいつまで経っても忘れられないと思う」
「…私と同じ名前なの?」
「そうだな。お前にとってそれくらい彼女が大切だったんだろう。見ていてもよくわかった」
「うそ…」

私本当に何も知らなかった。長太郎のこと全部知ったつもりだったけれど、彼の中にある一番大きなものを、私は1ミリも知らなかった。悔しくて思わず俯いた。

「でもこのままじゃいけないっていうのもわかってる」
「長太郎…」
「名前のこと完全には忘れられないけれど、小さくしていくことはできると思うんだ」
「……」
「だから、まず身の回りの物から何とかしようと思うんだけど」

そう言って長太郎が鞄から取り出したのは、私も見たことのない小さなアルバムだった。
日吉くんは「これは…?」と問いかけながらも手を伸ばしてそのアルバムを受け取った。

「…見てもいいのか?」
「構わないよ」

長太郎に促されて日吉くんがゆっくりとそれを開くのを私も隣で見ていた。

「これは…」
「…これ、私?」

アルバムの最初のページには数枚の写真が丁寧に貼付けられていた。その写真の全てに共通するのは、私が写っているということ。長太郎と二人で写っているものを中心に、氷帝レギュラーの皆とマネージャー私の集合写真、また私が一人で写っているものも多かった。
日吉くんがページをめくる度に本人ですら覚えていないような思い出の数々が露見した。

「これさ、俺が本当にテニスを辞める時まで日吉に預かっててほしいんだ」
「……」
「俺がこれを持ってたら忘れるどころかますます名前のこと思い出しちゃう」
「……っ」
「ひ、日吉くん?!」

アルバムに見入っていると、突然上から水滴が降ってきた。驚いて上を見上げると、なんと日吉くんが顔を覆って涙ぐんでいた。

「日吉…」
「…悪い。一番泣きたいのはお前なのにな」
「いいんだ。俺はもう十分泣いたから」
「……苗字。あんなに元気だったのにな…」
「…え?」

そう言って目を擦った日吉くんの言葉はあたかも私が今は元気ではないかのような言い方で。

そしてその瞬間から私は静かに理解し始めた。今私がどういった境遇にいるのか。長太郎の想いが決して届かない相手が誰であるのか。
隣に座る日吉くんはおろか、向かい側の長太郎とも一度も視線が合わない。私の言葉には誰も頷かない。

「名前…俺を置いていくなんて酷いよ」

ああ、私はしんじゃったのね。



喫茶店を出て帰路につく。あのアルバムはそんなに重くないはずなのに、日吉に託した今、鞄がとても軽い感じがした。

「長太郎」

名前に呼ばれた気がして後ろを振り返る。こんなこと名前がいなくなってからしょっちゅうだった。でも今度こそは本当に名前がそこにいた気がした。

「名前、またね」

こんな風に名前に呼ばれて振り返るのも今日で最後。今度会うときは、別の形で。それまではお別れだ。



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