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「まあ、テニスを…」
「ああ、だがそのお蔭で放課後時間をつくって会うことなどは難しいやもしれぬ」
「それならば名前が弦一郎君の部活動の応援に行ったらどうかね。差し入れも持っていきなさい、良い花嫁修業になるんじゃないか」
「お父様ったら…」

上品に口元を隠して笑う俺の目の前の娘は許嫁、いわゆる婚約者である。まさか俺に婚約者がいたなんて誰が疑っただろうか。父親から手渡された写真の中で微笑む女性は、まっすぐに切り揃えられた黒髪も手伝ってか俺よりもいくつか幼く見えたのだが大丈夫、なのだろうか。いろいろ思うところはあるが、時既に遅し。
しかし、一週間ほど前に急に取り決められたこのお見合いで緊張していた俺とは違い、落ち着いた所作で湯呑を回したこの娘は俺と同じ15歳であると口にした。同じ年であるということで緊張も解れた俺がこの娘、名前に惹かれるのにそう時間はかからなかったのだ。

「それでは小一時間ほど二人で過ごしていなさい」
「はい」

互いの父親が出ていきゆっくりと襖が閉められると、いよいよこの娘こそが俺の許嫁であり、生涯を共にするやもしれぬ相手なのだということがより一層強く感じられた。まっすぐに名前を見据えると、彼女も俺を見つめていた。ただ視線が交わっただけだというのに、この高揚感はなんだというのだ。
…艶のある黒髪に雪のように白い肌がコントラストを効かせ、さらに赤の着物が優艶であった。可憐、美麗、清楚…さまざまな二字熟語が頭の中を駆け巡ったが、果たしてこれらの単語をどのような主語に述語に組み合わせればこの娘の美しさが伝わるのだろうか、その答えは今まで女性とまともに会話をしてこなかった自分には一生見つからないだろうと思った。うむ、明日幸村にでも尋ねてみようか。
…それにしても、先ほどから名前は俺から視線を外そうとしない。そろそろ穴が開いてしまいそうなのだが。しかし、背中に汗が伝うのを感じたその瞬間俺はようやくその視線から解放された。俺から外された視線はそのまま襖へ向かう。なるほど、父親たちを気にしていたのだろうか。だがここまで時間が経てばもうとっくに場所をうつしているだろう。文字通り俺と彼女は二人きりになった。そう考えた瞬間、何か話さねばと今更ながら感じたのだった。

「名前、は、部活動などには、入っておられぬのだろうか」
「…あーあ、もうやんなっちゃう」
「………は、」

信じられるだろうか、先ほどまで背筋を伸ばし穏やかな表情で俺を見つめていていた名前が姿勢を崩し茶菓子を手掴みで口に放り込んだ、なんて。さらに耳を疑うような発言が赤く色づけられたその小さな唇から飛び出すなんて。

「また頭堅そうな男じゃない。話合わなそうだし」
「(お、俺のことを言っているんだよな…?)また、というと、お、お前はお見合いは初めてではないのか」
「二回目よ。13のときにあなたみたいな堅物とお見合いして、あやうく結婚させられそうになったわ!…でもその人死んだの」
「……ま、まさか殺」
「んなわけあるか。やっぱ頭堅いし」

事故死だと、そう言った彼女は真剣な表情をしていた。

「お父様は私が彼を気に入っていると思ってた。だから彼に似たタイプのあなた、弦一郎を私の許婚に選んだのかもしれない」
「…なるほどな」
「実際彼の死に深く落ち込んだのは私じゃない、お父様だったのよ。お父様は何が何でもこのお見合いを成功させる気だわ!それで私をはやく健康な男と結婚させて、自分が安心したいだけなのよ!」
「そんな…」

名前は俺の手を取った。その手は思っていたよりも小さかった。

「ねえ、あなたも私と結婚なんてしたくないでしょう?だったらこんなお見合い、いいえ婚約者なんて関係ぶち壊してやりましょ!!」
「し、しかし結婚と言っても俺はまだ」
「わかってるわよ、タイムリミットはあなたが18になるまでの高校三年間…。それまでに破談させないと!!あなたみたいな堅物と一生やっていかなきゃならないなんて、ありえないわ!!」
「…さきほどから黙って聞いていれば…人のことを何度堅物呼ばわりすれば気が済むのだ!」
「何よ!むっつりスケベ!!」
「なっ…たるんどる!!」

湯呑が倒れ、茶菓子が宙に舞う。こんな無茶苦茶なお見合いなど誰が予想しただろうか。…否、この女だけはこんな展開を望んでいたかもしれないな。さすがに取っ組み合いを見れば父親たちも泣く泣くお見合いを破談にするだろう。俺の胸倉を掴む無駄に威勢のいい娘を畳に押し付けながらも、頭では至って冷静だった。そんな俺と彼女の喧騒を断ち切ったのは、スパーンッという気持ちの良い障子が放たれた音だった。

「ずいぶん騒がしいと思ったら…弦一郎、お前女の子相手に何を…」
「こ、これは…」

体格が一回りも二回りも違う少女を男である俺が畳に押さえつけている場面を見られては、言い訳がきかない。(たとえ喧嘩を売ってきたのが彼女であってもだ)しかし、焦る俺の父親とは反対に、名前の父親は何やら怪しい笑みを浮かべていた。そして続いて発せられた言葉に青ざめた名前を俺は一生忘れないだろう。人間もここまで青くなれるのだと…。

「仲が良いのは良いことだが、出会って間もない相手と婚前交渉とはいかがなものかな?」
「ち、ちが!!誤解ですお父様!!!」
「はっはっは、まあ今日のところはこれでお開きにしよう。時間はまだたっぷりあるのだからな」

涙目になった名前の腕を引きながらも笑顔で俺と親父にあいさつをする名前の父親は、彼女の話に聞いていたよりもはるかにタフに見えるのだがいかがだろうか?二人が出ていき再び静まり返った八畳間の中で、父が俺を見た。

「ど、どうだ、名前さんは」
「ああ、なかなか面白いやつだ」

これから三年間、楽しくなりそうじゃないか。


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