「今日は、早く帰りたい」
小僧が玄関で呟く。俺は、スーツのシワを直してやりながら、小僧を見た。
「何で希望なんだよ」
「今日という日が、お前よりもずっと忌々しい日だからだ」
はあ、とため息をつきながら言った小僧は、眉間にシワを寄せて宙を仰ぐ。ああそうか、今日はバレンタインか。言われるまで忘れていたが、ずっと忘れていたわけではない。その証拠に、今日玄関に飾った花は2輪の赤い薔薇だ。
「男のお前には関係ないんじゃないのか?」
俺の問いかけに、小僧はぐっと肩を落とす。
「それが、どこかの国に感化された女性たちが、男性にチョコレートをプレゼントするようになったんだよ」
企業の策略だとも知らずにな、と付け加えたナサニエルの表情は全く浮かない。俺はにんまりと笑ってやった。
「それで、素敵な情報大臣サマは、レディに囲まれっぱなしってことか」
「僕に取り入ろうとしている、女性は多いんだ」
俺は不覚にも相手の女性たちに同情した。ナサニエルがここまで鈍いとはな。だが同時に、対象になってるのは俺だけ、という優越感にも浸る。俺は手を伸ばして、花瓶の薔薇を取った。その薔薇の水気を飛ばして、小僧の胸ポケットにさしてやる。
「何だ……?」
「俺からのプレゼントだ」
ぽかんと口を開けたナサニエルに、笑って続けた。
「あと、これもプレゼントだ。ありがたーく受けとれよ」
俺はナサニエルの肩に手をついて、その唇にキスを落とす。一瞬重ねてすぐに離すと、ナサニエルはみるみるうちに真っ赤になる。
「バレンタインだからな。ほら、仕事に行かないと遅刻だぞ?」
まだぽーっとしたままのナサニエルの背中を押し出した。これで、朝の仕事も終わった、と思ったら、突然ナサニエルに腕を引かれた。振り返った俺の頬に柔らかい感触。
「今日は、早く帰る」
ナサニエルはそれだけ言うと、玄関の扉を勢いよく閉めた。残された薔薇が花瓶の中で、少しだけ揺れた。
×