ヒールを履いた踵が痛い。ナサニエルはアラム語で悪態をついて、そっと壁に寄りかかった。何でこんなことをしているのか。舞台の休憩中にふと、そう思ってしまった。当然、メイクピースに頼まれたことだから、承諾すべきでなかった。まさか、シンデレラのヒロインとは、予想もしなかった。だが、よく考えれば、予想出来たことだ。ブルーのドレスはかなり重たい。相当手が込んだ装飾になっているらしい。ナサニエルはドレスを少したくしあげた。

「プリンセスがそんなこと、するもんじゃないだろう」

ナサニエルが声の方を見ると、褐色の青年が笑みを浮かべている。回りを少し伺ってから、ナサニエルは口を開いた。

「僕はプリンセスじゃあない」

その言葉を聞いた青年は、笑みを深くする。

「今のお前はどう見ても、プリンセスだがな」
「バーティミアス、うるさいぞ」

むっとして言ったナサニエルは、バーティミアスを睨んだ。ちょうど同じタイミングで、休憩終了のベルが鳴る。ナサニエルは持ち上げていたドレスを下ろした。

「もう、始まるから」
「あぁ、クライマックス、だろ?」

ナサニエルは頷く。行けよ、というバーティミアスの言葉に、ナサニエルは無言でドレスを軽く持ち上げて駆け出した。バーティミアスの姿が見えなくなる直前に、一瞬だけナサニエルは後ろを振り返った。

―――

12時を告げる鐘が高らかに鳴り響く。

「もう、行かなくては…」

ナサニエル…シンデレラは名残惜しげに呟いた。

「あぁ、シンデレラ。何故だい?」
「ごめんなさいっ」

王子の言葉を聞かずに、シンデレラは駆け出す。中庭を抜けて、広間を抜けて、階段を駆けおりる。階段をおりる途中で、ガラスの靴が脱げてしまった。後ろからは王子。戻ることも、立ち止まることも出来ない。シンデレラは必死に駆け下りた。しかし、その先には、台本には居ないはずの人物が。思わずナサニエルは速度を落とした。艶やかな褐色の肌が、黒い仮面の隙間から覗く。

「シンデレラ、待っていました」

ナサニエルが返事をする間もなく、男はナサニエルを両手で抱えた。

「誰だ!貴様はっ!!」

王子が叫ぶ。それに、バーティミアスは気障にウインクを返して答えた。

「俺か?俺は、騎士だ」

にたりと口角をあげる。ナサニエルはその笑い方で確信した。これは、間違えようがない。

「バーティミアス?」

ナサニエルは小さな声でたずねる。仮面の男は、ウインクを一つナサニエルに寄越すと、その場で高く跳躍した。

「王子ごときに、シンデレラは渡さん」
「は?」

王子役の人物は本当に困ったように、すっとんきょうな声をあげる。だが、ナサニエルには顔はみえなかった。飛び上がったことで、バーティミアスにしがみついてしまっていたから。

「俺以上に彼女を愛する者は居ない」
「なっ、何を言うのだっ」

王子役の人物もこれには乗らざるを得ないと思ったのか、アドリブで台詞を言う。

「一目惚れで成立する恋は無い」

バーティミアスはそれだけ言うと、跳躍したまま、ナサニエルの額にキスを落とした。いろいろな意味で放心状態のナサニエルは、すでにバーティミアスになされるがままになっていた。ふわりと階段の手すりに飛び乗ると、ふわりとマントを翻す。

「誰に奪われそうになろうと、俺がさらってやるよ」

バーティミアスは、ナサニエルだけに聞こえるようにそれだけ囁く。そして、バーティミアスとナサニエルが去って、慌てたように幕が閉じられた。突然のことではあったが、舞台は大盛況のうちに幕を閉じた。

「バーティミアスっ、お前は何を考えてるんだ!」

舞台袖で、バーティミアスに抱えられたままのナサニエルが声をあげる。

「何って、ただのシンデレラじゃつまらんだろ」
「そういう問題じゃない」
「騎士様は姫のためなら、なんだってするのです」

そうおどけて言ってみせたバーティミアスは、ナサニエルの頬に口付けた。ナサニエルの顔がみるみるうちに朱に染まっていく。ぎゅっと、バーティミアスの首に顔を埋めるナサニエルを、そっとおろした。

「こんな可愛らしいお姫様を、どこぞの馬の骨とも知らない王子ごときに、やるわけにはいかないからな」
「ばかか。演技だよ、演技」

ナサニエルはふいっとそっぽを向いた。顔が熱い。心臓は速いテンポで脈打つ。

「本当ならば、あんなやつに、触れさせたくもなかった」
「手ぐらい、どうでもいいだろう」
「わかってねぇな」

そう言って、バーティミアスはナサニエルの手を取って、やさしく包み込んだ。

「この騎士様は独占欲が強いのさ」
「知ってるさ」

ナサニエルはそっとバーティミアスの頬に唇を寄せる。相変わらず、ドレスは重たい。

「靴がなきゃ、自分の愛する人がわからないなんて、本当に好きかどうかも疑問だな」

バーティミアスは笑って言った。

「俺なら、一瞬で分かるのに」

そう言ってにたりと笑うと、ナサニエルを抱き締めて、すぐに離す。着けていた黒い仮面をはずすと、ナサニエルの前に跪いた。そして、ナサニエルの右手を取ると、手の甲に口付ける。

「何度でも、お前を探し出す」
「それ以前に、僕はお前から離れない」
「離すつもりも無いがな」

立ち上がったバーティミアスは、今度はしっかりとナサニエルを抱き締めた。そのまま、再びナサニエルを抱き上げる。

「うわっ、何だよっ」
「おとぎ話のクライマックスは、これからだ。お姫様?」

バーティミアスの首にしがみついたナサニエルは、自らバーティミアスにキスをした。

「クライマックスは来なくていい。僕はお前とずっと一緒だ」
「仰せのままに、My princess」

微笑んだナサニエルとバーティミアスの影が重なる。さらわれた姫と騎士の心が離れることはなかった。




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