「そういえば、お前泳げるのか?」
思い出したようにバーティミアスに聞かれて、ナサニエルは顔を上げた。何で、と問いかけると、なんとなく、と返ってくる。
「そろそろ暑くなるだろう。でも、一度も海へ行きたい、とか言ったこと無いだろう?」
そういえばそうかもしれない。わざわざそんなところへ行ってまで、泳ごうという気にもならなかった。それ以前に、忙しい過ぎて、そんな暇もない。
「必要性が感じられない。何で海へ行ってまで、泳がなくちゃならないんだ」
「それは海水浴をするって決まってるからだろ。もしくは、男は砂浜でビキニの女を眺めるかのどっちかと決まってる」
ナサニエルはポカンと口を開けた。
「何て顔をしてる」
「いや、そんな暇なことをしに行くのか、と思っただけだ」
正直なところ、ナサニエルは海へ行ったことが無かった。遠くから見たことはあるが、入ったことは無い。そこで泳ぐことも知ってはいたが、他に何をするのかは知らなかった。
「知らないのか?」
「そんなことは…」
無い、と言いかけて口ごもる。バーティミアスがニヤニヤと笑っていることに気付いて、慌てて目を反らした。
「いつか、行けたらいいな」
「ご主人さまのご要望とあればどこへでも」
バーティミアスは、わざとらしく大袈裟な礼をする。
「でも、お前、水着になれるのか?」
バーティミアスの素朴な疑問に、ナサニエルは固まった。バーティミアスは言いたいことはよくわかっている。
「全く、誰のせいだ」
「お前が見えないところに付けろって言ってるんだろ?」
「僕は付けていいなんて、一言も言って無いぞ」
そう言いながら、ナサニエルは自分の鎖骨の辺りに手を置いた。シャツを脱げば、紅い跡が点々としていることだろう。
「…まぁ、それはどうでもいい。海水浴をしなければいい話だ」
それじゃあ意味が無いだろ、とバーティミアスは苦笑を浮かべる。確かに、と呟いたナサニエルはため息をついた。
「泳げるとは思うが、そういえば、この何年かは全く泳いでないな」
「そんなチャンスはいくらでもあるだろ」
「そうだな」
ナサニエルは小さく微笑むと、うーんと伸びをする。
「まぁ、海に行くにしても、まずは仕事を片付けなければならない」
「そうだな。…紅茶、淹れてくる」
ナサニエルは机の上に転がった万年筆を手に取った。