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 困った。
 何が困ったって、自分でフラグを立てて回収してしまった。かがりの目の前に場地と千冬が揃っている。さっき無かったことにしたばっかりなのに、まさかこんなに速いとはかがりも思わなかった。じわじわと流れる冷や汗を感じながら、じっとこちらを見つめて並ぶふたりの姿に、なんとなく、おなじだと思った。それはそうとして困る。無意識に少し後退りしていたらしい右足のスニーカーが、じゃりっと小さく音を立てた。──畏れているわけではない。わたしたちのような存在は、畏れてしまえばそれでおしまいだ。だから、困っている。おのれの心に嘘を吐いてはいけない。けれど、かといって推し・・に嘘を吐きたいわけでもなかった。それなのに結果的にそうなってしまったのは確かにかがりが臆病風に吹かれていたからではあるが、決してそれだけではなかった。かがりは認識されたくない≠ニいう気持ちが人一倍強い。推しに認知されたくないオタクとかそういうことではなく、本能的なところで。こればっかりは血筋だ。諦める他ない。けれど、運良くそれは『倉里かがり』と相性が悪くなかったので、今まで特に困ったことは無かった。今の今までは。

(困る……)

 切れかけの電灯に照らされて、こちらを見つめる松野の猫目が光って見えた。単車バイクは停めたままだ。一方場地はというと、松野が手に持ったままのペヤングを見ていた。かがりが受付拒否をしてしまった可哀想なペヤング。まだ手に持ってたのか。我に返って眺めてみると、なんだか間抜けな姿だった。思わず、笑みが漏れる。

「っふ……」
「ンだよ。なんかあんのか?」

 かがりの笑い声に敏感に反応した松野が不愉快そうに唸る。場地さんが見てるけど、いいんだろうか。いいんだろうな。松野って自分が認めたことに対しての沸点が結構低いから、かがりが知らないだけでガラの悪いところなんて、じゅうぶん見せてるんだろうし。……いいなあ。

(……? いいなって、……なにが?)

 ぱちぱちと瞬きをするかがりに、どうやらペヤングを諦めたらしい場地が話しかけてくる。彼が一音を漏らした途端に、ばっと音が聞こえるほどの速さでそちらを向くのだから、いっそ面白いくらいに松野は正直だ。なんとなしに、さっきまでわたしを見ていたのに薄情な奴だ、と思った。

「なあ。オマエ、誰? さっき『げ』っつってただろ。オレのこと知ってンの?」
「えーっと……」
「場地さん、コイツ、オレの同級生なんですけど、実は昨日誕生日だったらしくて」
「ほー。そりゃオメデト。で、名前は?」

 何の気なしに答えようとする松野に、ざっと血の気が引く。苗字はマズい。同じクラスなんだから耳にする機会は多いだろうし、それなら名前のほうが学校で呼ばれることが無い分まだマシだ。松野が言い切ってしまう前に遮らなくてはいけない。これ以上考えている時間は無かった。かがりは勢い込んで口を開く。ちなみにこの間1秒もかかっていない。

「くらざ」
「かがり! です!!」

 セーフだ。ほぼ言っちゃってるけど言い切ってないからセーフ。場地さんが誤魔化されてくれさえすればそれでいいのだ。大丈夫、場地さんは誤魔化されてくれている。なんかたじろいでいる気がしないでもないが気にしない。ちなみに突然言葉を遮られた松野はきょとんとしている。推しのぱちぱち瞬きがかわいい。思わず口角が少し上がった。

「お、オウ……急に元気になったな。ペヤング食うか?」
「アそれはいいです。結構です。ありがとうございました。サヨナラ!」

 これ以上話を長引かせるのは得策でないと判断したかがりは恵まれた身体能力にものを言わせての逃走を図っていた。そこに突然差し出されたペヤング。ただでさえ混乱しているのにそれに輪をかけられたようなかたちだ。つまりは失礼だとかそういうことを何も考えずに反射で拒否してしまった。ウワと思った次の瞬間にはもうかがりは駆け出していた。もう逃げるしかない。

「はあ!? オイ、かがり・・・!」
「松野もまたね! ペヤングありがと!」

 後ろからひっくり返ったような松野の大声が追いかけてくる。なんだか聞き逃してはいけないようなことを言っている気がするが、スタートダッシュをキメたかがりにそんな余裕はない。とりあえず彼のほうを向いて手を振ってこちらも大声で返した。表情筋が仕事をして、笑みの形をつくっているのを感じる。もらってもいないものにお礼を言うのはおかしいとは思うが、ペヤングをくれようとしたその心が嬉しかったのだ。なお近所迷惑は考えないものとする。そもそもあのふたりは暴走族で、こんな夜中に単車バイクをふかしてたんだから大声ひとつをかがりが気にすることなんて無いのだ。
 なんだかとてもいい気分だった。ぐっと踏みしめた地面がかがりを後押ししているようにすら感じて、ついスピードが上がる。速く走れるのは気分がいい。なんならもう少し走っていたいくらいだが、がさがさと音がうるさいからと胸元に抱え込んでいるアイスがこれ以上溶けると考えるとさすがに悲しかったので、目的地は変えないがほんの少しだけ遠回りをすることにした。そもそもかがりはへべれけの面倒くさい誘いから逃げてきたのに、この分だと早々に到着しかねなかったので。
 視界の端で街灯の光が白い筋になるのを捉えながら、上下左右関係なしにあちこちから投げかけられる「おめでとう」に応える。おめでとうと言われるのは何回でも気持ちがいい。こんなんナンボ言われても嬉しいもんですからね、と前世──今となっては未来だけど──で流行っていたお笑い芸人のネタに則って誰かに笑ってみせたいくらいだ。たとえ今からすれば未来人であるタケミっちがここにいたとしても通じないのだと思うと、すこし悲しいけれど。
 実のところ、例年誕生日の翌日なんて前日の余韻で物悲しいし、結局当日に祝ってくれなかった家族たちがせっせと「おめでとう」を投げかけてくれるのもあって、あんまり好きじゃなかった。けれども、推しに祝わってもらえたから、かがりは今日はいい日だと思えたのだ。きっと来年も、それから十三年後の今日にだって、「誕生日おめでと」と言って含羞んで笑った松野の顔をかがりはくっきりとまぶたの裏に思い浮かべることができる。
 倉里かがりは愛されて生まれてきたし、かがりだってかがりを愛するひとびとを愛している。世界の中心で愛を叫んだっていいし、そんな誰かのためにこの命を使ったっていい。

「誕生日おめでとう、わたし!」

 かがりは晴れやかに笑って、祝いの言葉を空に投げかけた。





 気配をなるべく消し無言で部屋に戻るか、それとも挨拶をするべきか。玄関扉に手をかけて一瞬考え込んだが、結局のところ、かがりが抜け出したことは一部のものにはバレているのだ。どちらを選んでも変わらないのなら、まだ挨拶をした方が心証はいい。

「ただいまー」
「おかえり」
「おけーり、お嬢」

 からからと軽い音をさせる戸を引くとそこには、片方は廊下から土間を覗き込むようにし、もう片方はちょうど靴を脱ぎ終えたといったような格好で、男がふたり立っていた。兄と自若これまさだ。

「あれ、兄ちゃん。なんでここに?」
「俺のことは無視かよ」
「かがりがこんな夜中に出かけるからでしょ。コンビニに行ったにしては遅かったね」
「テメェもかよ。ンなのどうせ夜遊びに決まってるだろーが」

 かがりのことが嫌いなのであればさっさと立ち去ればいいものを、自若は貧乏ゆすりをしながら毒を吐いた。どうやらかがりと兄の両方からスルーをくらって苛立っているらしい。喧嘩でもしてきたのか、顔や服のあちこちに滲ませた血を乱暴に拭っている。身をかがめて靴を脱いでいると、かがりよりも上背がある分、こちらを見下ろすようにして立つふたりには威圧感があった。
 言ってしまえばたまたま会った同級生と話していただけなのだけれど、思い出してみれば松野にもそう言ったのだった。夜遊び。そうかもしれない。一度そう思ってしまえばそれ以外のなにものでもないように思えて、かがりはひとつ頷いた。

「うん、そう。夜遊び」
「……、は?」
「兄ちゃん、これ冷凍庫に入れてきてくれない?」
「アイス?」
「そう。たぶんちょっと溶けちゃってるからできるだけはやくお願い」
「あー、まだ酔っ払ってる方がたくさんいるからね……わかった。入れてくるよ」
「ごめん、ありがと」
「別にいいよ。……かがり」
「なに、兄ちゃん」
「誕生日おめでとう」

 生まれてきてくれてありがとう、と兄は目を細めて微笑んだ。何が気に食わないのか、その言葉に自若は忌々しそうに顔を顰めている。
 やっぱり、家族はかがりの誕生日を当日に祝ってくれはしなかった。虚ろがもやもやと心の隅で騒めくのを無視して、かがりは笑顔でありがとうと兄に言った。
 次いで自若が顔を歪めたまま、口を開く。嫌々に、それでも言わぬなど考えもしないといったように呪いを紡いでゆく。

「誕生日オメデトウ、お嬢。……テメェなんて、」

 生まれてこないほうが、よっぽど。
 その先は言葉にならずに、空に解けていった。それをかがりはやはり微笑みながら、じっと見つめていた。

 倉里自若は知っている。
 自分が頑なに「お嬢」と呼ぶ彼女が、何≠ナあるのかを。そして、彼女が生まれた末に、何を自分たちに齎したのかを。
 倉里は、知っている。

 倉里かがりは知っている。
 忌々しそうに顔を顰めて、それでも自若はかがりの誕生日を祝ってくれることを。彼が真面目であるがゆえに苦しんで、そうして自分を嫌っていることを。

 拾った藁人形のなかから見つけたお守りが、立てかけるようにして置いておいたかがりの自室でぱたんと音を立てて倒れた。折り跡の残る草臥れた写真のなかで、穿たれた彼と少年たちは笑っていた。




 夢を見た。松野千冬の夢だ。彼はなにか、黒く大きな影を抱えていた。雨音が止まない。キーンと高く耳鳴りがする。止まない。ぼたぼた、ぼたぼたと。金の髪が濡れてぺたんこになっていた。ざざ降りなのかもしれない。口元が動いているのに、聞こえない。耳はそれなりに良いはずなのに。雨音が止まない。彼のピアスではない、なにかが光っている。

「場地さん」


 そこで目が覚めた。




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