6


 ぱちりと勢いよく目を開いた。寝起きの半ば反射でなされた忙しない瞬きによって次第に鮮明になる視界の一面に広がる、竿縁の走る板天井を呆然と眺める。よくよく見慣れた自室の天井だ。

「…………ぁ」

 夢か。
 そんな一言とともに、かがりの朝は始まった。


 かたんと音を立てて障子を開くと、どうにも曇り空のようで庭に面した廊下は薄暗い。少なくとも今暫くの間は降らないという当てでもあるのだろうか、雨戸は閉められていなかった。部屋から廊下へとかがりが足を踏み出すとぎいと知覚できないほど微かに床板が沈んで鳴く。外から流れ込んだ雨降りの気配を含んだ空気が肌を撫でる。
 いつも通りの朝だった。
 台所へと繋がる開口部の鴨居に掛かる暖簾をくぐると、漏れ聞こえていたトントンと軽やかな包丁の音やくつくつと鍋の煮える音が途端にぶわりと膨らんだ。いつもながら、ここは朝の忙しなさをいっぱいに詰め込んだような場所だ、とかがりは思う。

「オハヨ、おかーさん」
「おはよう、かがり。お誕生日おめでとう」
「ウン」
「あ、ケーキあるからおやつにでも食べてね」

 誕生日、もう昨日なんだけどな。
 渡されたお盆を受け取りながらかがりはすこし口をとがらせる。毎年のこととはいえ、それを十三歳になったばかりのかがりが受け入れられるかは別の話で、やはりちりちりと不満のようなものが燻るようにして心に残った。こうも翌日に祝われては、まるでかがりの誕生日が今日であるかのようにさえ思える。
 それきり再びまな板に向き合った母は振り返らなかった。仕方のないことだ。かがり一人に構っていられるほど倉里の屋敷は狭くない。朝食ひとつとっても、猫の手も借りたいほど台所衆は忙しいのである。

 味噌汁の溢れないように心持ち慎重になりながら広間に辿りつく。いつもそうだというのは抜きにしても、あちこちの戸が開け放たれていることがありがたかった。もし閉まっていたら、足で開けるところだったので。そんなことをしたら叱られるとわかっていても、目先の面倒くささとを天秤にかければかがりのそれは簡単に傾く。
 だって、あんまり気にしていたらハゲる。なにぶん古い家であるから、行儀にうるさいものは嫌というほどいるのだ。かがりはいたって品行方正に制服を着用しているから何も言われないが、この時代のギャルっぽい女子中学生であったならスカート丈が云々髪の毛が云々と鬱陶しいことこの上なかっただろう。我が家には同世代の女子がいないから、実際どうかはわからないけれど。

 がやがやと喧しい広間の隙間から縫うようにして上座のほうを窺うと、いつもはそこにいるはずのひとは既にいなかった。そりゃそうだ、我が家の大半が夜型で朝に弱いなか、あの方だけは体質に関係なく朝が早い。かがりも学校のある平日であれば七時までにはどうにか食べ始めるが、あいにく今日は日曜日で、ついでにいまの時刻は八時半だ。とっくに食べ終わっていてもおかしくない、と思う。思うけど、ほんとうにそうだろうか?
 だって、いつもであれば一時間程度はそのままこの上座で新聞を読んでいる。ついつい、と転がったままの座布団を足先でつつく。まだ温かかった。

 戻ってくるかもしれない、と思って新しく自分のぶんの座布団を山から引っ張り出して座った。もうひとつと違って、人肌の温もりに触れていなかったそれはひんやりと冷たい。なんとなくすわりが悪くて、正座したまま足先をもぞもぞと動かした。

(なんだったんだろう、あの夢)

 お盆の上の小鉢から自然と緑を摘んで食べながら、かがりは考える。
 今朝のかがりが見た夢のなかで、松野千冬が雨降りのなかずぶ濡れになって黒い影を抱きかかえていた。いつもと違う、とかがりは思う。いつもとは違う。あの夢は、なにかが。
 でも、それがなにかわからないから気持ち悪い。
 がじ、と無意識に口に入れたままの箸先を噛む。たぶん、あの夢は血のハロウィンを意味しているのだろう。かがりは原作を読んでいないから知らないが、夢が正しければ当日は雨が降るのだろうか。でも喧嘩中は濡れて面倒だし、途中から降るのかもしれない。もとは漫画なワケだし。寝る前に当事者のふたり──松野千冬と場地圭介に会ったからそんな夢を見たのかもしれない、と思う。別にそれ以外にないだろ、とも。でも、やっぱり違うのだ。
 ただの夢じゃない・・・・・・・・
 そんな奇妙な確信が、かがりを満たしていた。

 ぼうとどことも知れぬ空を見つめていると、ふと、気の緩みからか手から力が抜けた。危うく箸を取り落としそうになって、かがりは慌てて握り直した。わ、と声が出そうになったのを堪えてふと、何気なく顔を上げると、瞬きのうちに目の前に男が立っていて、かがりを見下ろしている。

「ン。どうした、食べんのか?」

 エッと声が出た。食べるよ、食べる、と反射的に言い募りながら、並ぶ小鉢の上をどれを選ぶかを決めかねたかがりの箸が迷う。そんなかがりを他所に、よいせ、と言いながら男は出しっぱなしで転がっていた座布団に腰を下ろした。

「かがりはいつも朝から元気よなあ」

 しみじみとした声だった。面食らって、かがりがそっと彼のほうを向くと、男は片膝を立てながら目を三日月のように細めてこちらを見ていて、目が合った。かがりがもごもごとさっき放り込んだばかりのきんぴらを口のなかで転がすのを、優しい顔をして眺めている。

「なに? じじ様はいっつも朝早いじゃん」
「いやいや、爺だからおれは朝こそ早いが元気ではないからな。おまえさんが羨ましいよ」
「若作りがよく言う……」
「聞こえとるぞ。悪かったな、若作りで」
「悪いとまでは言ってないけど、朝早いこと以外に爺要素が無いのに自称ジジイは世の中に謝ったほうがいいんじゃとは思う」
「仕方ないだろう、これも血だ」
「すぐ血のせいにする。そこにいるおじいちゃんに謝れ」

 突然巻き込まれた上座のすぐ側でお茶を啜っていたおじいちゃんが「なんで?」という顔をした。ごめんおじいちゃん。つい流れで……

「すまんな、行成」
「いや行成はわたしのおじいちゃんじゃなくて伯父さんだから。そこはボケないで?」
「すまんな、泰己」
「なんで兄ちゃん!?」
「かがりは朝から元気よなあ」
「それ言うの二回目だし、誤魔化せないからね?」

 にこ、と無言で爺様は笑った。笑って誤魔化すな。

「それで、どうしたんだ? 変な顔をしていたろう」
「急に真面目になる……」
「蒸し返すなあ。いいからさっさと話しなさい」
「……変な夢を見て」
「ほう。それで?」
「いや、それだけ」
「『それだけ』であんな風にはならんだろう、おまえさんは」
「…………なんか、『違うな』って、思って」
「勘か」
「そうなる、かな。……笑う?」
「笑わないさ。おれたちにとって、そういうは大きな意味を持つことが多い。しかし、うーむ……そもそも、どんな夢だったんだ?」
「知り合いが……たぶん、死体を抱えて泣いている夢、だった」
「待て、死体? 其奴も知り合いなのか?」
「うん。その知り合いの尊敬するひと、だと思う。もちろん生きてるけど」

 言いながら、かがりは決まりが悪くなった。ほんとうは、この世界における未来の出来事を夢に見たのだろうとはわかっている。……未来?

「よ、ちむ……ねえ爺様、予知夢とかって見れる?」
「いや。だが、未来を視ることのできる者はいるな。おまえさんも知っているだろう」
「え」
「かがり、おまえさんもしや、露姫にうたな?」

 会った。なんなら昨日会った。

「それで、『加護を与えてやろう』とでも言われたろう」

 言われた。なんなら一言一句同じだった。

「な、んで……」
「かがり。露姫は未来視の能力者だ」

 だから祀られている。
 難しい顔をした爺様はそう言って、顎をさすった。

「露姫の加護がおまえさんに夢というかたちで未来を視せたんだろう」

 その一言で、すべてが腑に落ちた気がした。
 ただ単に漫画の内容を見ただけなのになぜかそれがいつもの夢とは違うと思ったのは、それがこの世界において未来の出来事──つまり、予知夢だったからだ。

「で、好きなのか?」

 好きなのか。……好きなのか? なにが?
 出し抜けに問われて思わず爺様の顔をまじまじと見れば、なにやら含み笑いをしている。いや、なに?

「未来を視てしまうほどに、其奴のことを好いているのだろう?」

 ………………ん?

「えっ、や、ちがう! そういうのじゃない!」
「ほう?」
「ほんとに違うんだって! 露姫とは昨日お会いしたし、その知り合いとも寝る前くらいに久しぶりに話したからってだけ!」
「いやはや、可愛らしいなあ」
「ちょっと爺様、話聞いて!?」

 露姫もだけど微笑ましい顔をしないでほしい。推しなだけで、ほんとうにそういうのじゃないんですって。……でも令和ほど『推し』の概念が浸透していないこの時代のパンピにそれを伝えようとはとても思えず、最終的には『好きなひと』などと訳してしまうかがりの自業自得と言えないことはない。言いたくはないし、認めはしないけど。

「人を恋慕することも、愛することも結構だが」

 突然、爺様は真面目な顔をして、そう言った。

「ゆめゆめ忘れるな。おまえさんは特に、おれ・・たちに近いのだから」

 わかってる、とかがりは呟いた。その声は投げやりでいてどこか必死な色を帯びているようにも思えた。去っていく爺様の背中を眺めながら自嘲する。
 わかっている。わたしがこの先、どうなるのかわからないことくらい。だから、恋なんてしない。
 してはいけないとそう、思っている。

「わかってるよ」

 倉里かがりはきっと、すべてを置いていく。


 かがりの生まれた倉里という一族は代々武闘に明るく、教室を開いているというわけではないが道場を持つ。そのうえ武家屋敷とまではいかないが、それより幾らか小さな屋敷──小さなとは言えど、それでも十分大きい日本家屋──に腰を据えている。ついたあだ名が《ヤクザ屋敷》だ。男家系で強面、それでもって元ヤンが多いのは否定しないが、もちろん本当にヤクザであるわけではない。少なくとも、江戸以前から続く由緒ある一族であるのは確かだ。
 そも、倉里の人間は体が頑丈であり傷の治りも早い。かがりも例外ではなく、おかげで女だてらに同世代では並外れて強かったし、それどころか倉里家でも頭一つ抜けて血が濃かった。全治何ヶ月の大怪我が倉里の人間であればその半分で治るというようなところを、かがりは最悪一ヶ月を待たずに完治してしまうし、擦り傷なんかはほとんどその場で治る。

 倉里にとって血が濃いというのは、人間離れしているということだった。


 コトン、と音がした。湯呑みを机に置いたときみたいな、硬質な音。いつの間にやら瞑っていたらしい目を開けば、空になった食器たちがかがりの前から片付けられていくところだった。

「なんか、呼ばれたから……」

 なぜだかバツの悪そうな兄が立てた片膝に乗っているお盆には、かがりの食器が当たり前のような顔をして並べられている。そういえば呼んだっけ、とかがりは思う。たしかに、爺様は兄の名を呼んでいた。ふつうの会話程度の声量だったから、この場にもとから居でもしなければ聞こえないはずだが、そんなのはかがりにとって、些事といってよかった。

「兄ちゃん」
「うん」
「兄ちゃん……」
「どうしたの、かがり。兄ちゃんに言ってみな」

 おまえのための、おれたちなんだから。
 そう言う兄の屈託の無さに、かがりは半ば反射的に自若これまさの姿を思い浮かべていた。そういえば、今日は道場行ってないな、と現実逃避のように考える。今行けばもしかしたら、来ないかがりを待ちくたびれた自若が仁王立ちをしているかもしれない。毎朝投げたり投げられたりしているから、いつも通りのつもりで。
 嫌だな、と思う。別にどちらに掛かっているワケではないけれど、なんとなく。
 なんとなく、嫌だと思った。




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