じくり、と無いはずの左目が痛んだ。
*
こつこつと延々と壁のない空間である砂利道には不似合いな足音が響いている。
「ああもう、普段なら足音を消すなんて訳無いのに!」
ぎゃん、と苛立ちを散らせるようにして吠えながら刀を振る女がひとり。振るわれた刃は絶妙にその位置に飛び出してきた化け物をすっぱりと両断した。その喚きながらも踏み出す迷い無い足取りと正確無比な攻撃は、このような状況に女が慣れきっていることが窺える。
女の名は續木火群。日夜鬼を滅せんと刃をふるう一介の鬼殺隊隊員である。
この度も鎹鴉の伝令により、夜毎若い娘がひとり、またひとりと消える街へとやってきた。情報収集により悪鬼の根城と目星をつけ踏み込んだ山。そこにやはり元凶の鬼はおり、鍛え上げた剣技で首を斬る一歩手前まで追い詰めることには成功していた。しかし最後の悪あがきとでもいうように鬼は血鬼術を繰り出し、火群の生来のある体質──ある性質の空間系血鬼術に無条件で取り込まれてしまうという副作用によって、はてさて幾度目か──正体不明の黒い空間に現在進行形で放り込まれている。
「いやほんとう巫山戯るのもいい加減にしろよ、あんな血鬼術、空間系でなくば取り込まれるなんて真似しなかったのに!」
悪鬼の悪あがきと自身の面倒極まりない性質のふたつに、火群はぎりぎりと心中で歯噛みする。
経験上、空間系血鬼術から脱出する方法はふたつある。元凶である鬼を斬るか、出口を見つけることだ。もちろん、あるかどうか分からない出口を探す後者よりも前者の方が確実性が高い。それに、先ほどまで首を斬る寸前までいっていたのだから、鬼はだいぶ消耗していることだろう。
(よし、元凶の首を狩って出よう)
ある種の即決で、火群はさらに加速した。どん、どん、と派手に音を立てつつ技を繰り出し攻撃と加速をいっぺんに熟しながら、まるで周囲の敵すべてを把握しているのかのように暗闇を一直線に突き進む。
四半刻もしないうちに、本体の鬼が目視できるまでたどり着いた。
鬼は分身すべてが倒されたことに狼狽しているのか、こちらに気付かず見苦しく喚いている。
(いける、好機だ……!)
「──炎の呼吸、壱の型 不知火!!」
ザン、と袈裟斬りにされた鬼の首が飛ぶ。
「ナゼ、ナゼダァァァ!! 許サヌ、許サンゾ鬼狩りィィィ!!」
首を斬られた鬼の戯言など、ただの負け犬の遠吠えだ。そう思うのに、その言葉にゾッと肌が粟立つのは、経験に基づく嫌な予感がするからだ。
警戒する火群をよそに、術者を失った血鬼術で造られた空間は端から急速にボロボロと崩れていく。その様子におかしな点はどこにも見当たらない。
(気のせい……だったのか?)
そっと息を細く吐いて、姿勢を正す。それでも納刀した腰から手は離さない。警戒するに越したことはない。もしかすれば漁夫の利を狙う鬼がいるかもしれないからだ。
(はやく、ここから出ないと……)
階級が上になるほど、敵は強くなり任務の数もまた多くなる。火群は繋ぎとはいえ柱だ。実際、まだこの後にも任務があることは鎹鴉によって事前に通達されていた。
崩れていく空間の割れ目から外の景色が覗いている。このまま崩壊の終わりを確かめるよりも早々に出てしまった方が誰にとってもいいのは明らかだ。そう考え、火群がぐッと地を踏みしめると──突然、眼前に広がっていたはずの景色が黒に染ってゆく。
「くそッ!」
ガッと踏み込んだ足は勢いそのままに飛び出す。焦りのあまりこめかみの辺りを汗が伝うのを無視する。
(しまった! 油断した!)
アレは先程の血鬼術ではない。斬った鬼の消滅はきちんとこの目で見届けている。
では何か?
神隠しだ。それは巻き込まれる人間の都合は関係なく、また、回避することもできない。
火群はそれを身にしみて知っている。だから足を止めない。そんなことに意味は無いからだ。それが神隠しだと判った時点で火群が判断したのが、このまま速さを保ち、落ちた先での先手をとることを優先することだった。
火群が飛び出して少しもしない内に、黒に染っていたはずの前方は先程とは異なった景色に変わっていた。
(お館様ッ!!)
それはまだ幼い火群の主であるその人の屋敷。産屋敷邸とその庭、柱となった火群にとって見慣れたと言える場所だった。まもなく訪れるはずの空間の終わりで踏み切るために、呼吸を使ってさらに加速する。
この時この世界で最後に火群が聞いたのは、己の鎹鴉の金切り声だった。
「カァァァ! 伝令! 伝令ィ! 異能ノ鬼ノ消滅ヲ確認! 續木火群ノ存在ハ確認デキズ! 帰還セズ! 今後ノ任務遂行ハ不可能、至急応援来ラレタシィ!」