どこにもいないかたちを探している


 ぱたぱたぱたと雨音が窓を叩く。そろそろ梅雨だからか、ここのところ空が泣く日が続いていた。
 つまらない教師のだらだらとした説明を聞き流しながら、詠子は窓に水滴が垂れ続けるのを眺めていた。頬杖をつきながら、もう一方でくるりと赤ペンを回す。黒板の文字はここ数分ほど増えていない。この教師の授業は終業ギリギリになって一気に板書をさせてくるか、休み時間を使わせてくるタイプで好きじゃなかった。

「で、あるからして……」

 カツカツ、と小さく硬質な音が近くから聴こえてきてちらりと視線をやる。どうやら、通路を挟んだ左前に座る男子がシャー芯の補充をしているらしかった。先が詰まっているのか、ときどき首を傾げては目立つ金色がふわふわ動いている。いつもならスプレーか何かでガチガチで動かないのに揺れる髪の毛に、今日はリーゼントってヤツしてないんだな、と思った。別に好きとかそういうのじゃないけど、下ろしてるほうが絶対イイのに。

「……では、各自黒板を写しておくように。これで授業を終わります」

 起立、と間延びした男子の声に合わせて立ち上がった。ガタガタと各々のタイミングで引かれた椅子が不協和音を奏でる。
 でも案外、詠子はそれが好きだった。人間、いろいろ生きているなと思えて。

 結局休み時間を使わせてくるパターンだった板書に苦々しい思いでペンを走らせていると、突然ノートに詠子のものではない影がかかった。良い悪いで判断するなら間違いなく仲が良かった方に分類されるが、クラスが違えばほとんど話さないタイプの中学の同級生だった。
 お願い、と手を合わせる彼女曰く、授業変更があったのをすっかり忘れてしまっていたので教科書を借りたい、ということだった。なんでも、借りようにも仲の良い他クラスの友人はその授業が無く、軒並み彼女の危機を救うことができなかったらしい。詠子自身も少なからず経験があるから同情する。それを知ってのことだろうが、都合よく詠子のクラスは今日のその授業を既に終えていて、貸したとして差し迫った状況になることはない。机の横に掛けたリュックサックからごそごそとその教科書を探し出して渡すと、手のなかの冊子を抱き込んで彼女は花のように笑い、それから急いで教室を飛び出していった。

「ありがとう、場地さん!」

 いいよ別に、とだけ笑って詠子がドップラー効果のように残されたその言葉に手を振ったのと同時に、がたりと一際大きく椅子が後退りする音が聞こえた。

「ば……バジさん?!」

 件の、詠子の左前に座る金髪男子だった。ぱくぱくと開閉を繰り返す口と相俟って、いまなら金魚に似ていると言えないこともないなと暢気に詠子は思った。

「なあに、急に。えっと……ナンタラくん」
「えっ、クラスメイトなのに覚えられてない……! あの、オレ、花垣武道です!」
「わかった。じゃあ、花垣くんって呼ぶね」
「あ、うん。じゃなくて、あの、さっき、バジ≠チて呼ばれてた……よな」
「……あぁ、苗字が違うってこと? 実は高校上がる前くらいに親が再婚したんだけど、それって別に、あんまり言い触らすようなことでもないでしょう。あの子は中学の同級生なんだけど、わたしの苗字が変わったことを知らなかったんだろうね」
「そ、そうなんだ……」

 まだ他に、なにか聞きたいことがあるとその青い目が正直に物語っている。

「場地≠チていうのは母親の旧姓なんだ」

 そうじゃないよ、とそう物語るように青い目は強い光を宿したままだ。
 ちらりと壁掛け時計を見る。始業一分前といったところだ。既に前の時間の板書は消されている。結局すべて写すことは叶わなかったなと心のなかでため息を吐いて、それから席に着いた。

「花垣くん、授業始まるよ」

 まあ、友だちにあとで見せてもらえばいいか。どうやら彼はまだなにか、聞きたいことがあるようだし。
 詠子も詠子で、花垣くん≠ノは聞きたいことがあるのだから。


「奈桐さん、ちょっと」
「うん。ドコがいいかな」
「えっ……と、じゃあ、オレに着いてきてくれないかな」
「わかった。ちょっと待ってね」

 椅子に座ったまま伸びるようにしてガサガサと手提げカバンの中身を引っ掻き回し、なんとかお弁当を掴み出す。立ち上がると、今日も一方だけが伸ばされた脇腹がすこし痛んだ。いつか痛めそうだなと毎日この変な体勢をするたびに思うが、なんとなくやめられない。

「横着はよくない、とは思うんだけどね」
「え?」
「ううん。なんでもない」

 行こっか、と詠子が笑いかけると、花垣くんはぎこちなく笑って、ウンと言った。
 お弁当は持っていなかった。

 花垣くんに先導されるままに着いて行った先には人気のない空き教室があった。こういうトコ、来たことないなと詠子は思う。友だちがいっぱいいるような人間がすっかり全てを使っていると思っていたから。穴場なのだろうか。

「それで、花垣くんは何が聞きたいの?」
「あの、さ。奈桐さんって……」

 いかにも言いにくそうに、花垣くんはうろうろと視線を彷徨わせる。

「いいよ。言って」

 ここまで来たんだから言ってくれないと困る、と詠子が後押しすると、花垣くんはふうとひとつ深呼吸をして、それから口を開いた。

「場地圭介≠チてヒト、知ってる?」
「Kくん? 知ってるよ」
「けーくん!?」
「そう。従兄なんだ」

 あんまり会うことは無かったけどね、と伸びをして、ひとつ考える。場地≠チて苗字に反応する不良・・というところであらかた予想はついていたけれど、花垣くんが聞きたかったのって、やっぱりKくんのことか。

「優しくて、強いヒトだった」
「う……ウン」
「変なコだって言われるわたしにもぶっきらぼうに構ってくれる、優しいオニイチャンだったよ」

 きっと、きみが知ってるKくんもそうだったでしょ、と詠子が笑いかけると、くしゃりと顔を歪めて花垣くんは頷いた。もういいよと言いたくなるくらい、何度も何度も頷いた。合間に「ごめん」と絞り出されるようにして呟かれたその言葉の意味は、詠子にはわからなかった。
 ほんとうに、わからなかった。


「ご、ゴメン……」
「ホントだよ。なんで従妹のわたしじゃなくて、きみが泣くのさ。呼び出されたせいでお弁当食べる時間無かったなんてことになったら、どうしてやろうかと思った」
「どっ……!? ちなみに、もしそうなったらどうするつもりだったんデスカ……?」
「殴る」
「ヒェッ」
「……なんて、ウソだよ。Kくんでもあるまいし、そんなことするワケないじゃない」
「だ、だよね!」
「A子はか弱い女子だからね。不良くんみたいなそんな野蛮なことはしませんよ」
「エーコ? 奈桐さんって、そんな名前だったっけ」
「ううん、奈桐なきり詠子うたこ。詩を詠むほうの詠に子どもの子でウタコっていうんだけど、エイコとも読めるでしょ?」

 圭介はケイが入ってるから、Kくん。わたしはエイコでA子。わたしたちは、他の人にはわかってもらえなくたって、そうやってお互いを呼んでた。……ううん、ずっと、ケースケくんが詠子に合わせてくれてたんだ。

「花垣くん、Kくんとわたしが従兄ってこと、他の人に言わないでね。ここだけの話≠チてヤツにしておいて」
「いいけど……なんで?」
「わたし、Kくんとは従兄妹だけど、さっきも言ったようにそんなに関わりがあったワケじゃないの。それなのに、もしKくんの血縁ってだけで期待されたりしたら困るんだ」

 それに、そんなふうに訪ねてくるKくんの知り合いってやっぱり不良でしょう、と詠子が言うと、花垣くんはアハハと乾いた笑いをこぼした。笑いはともかく、ぐうの音も出ないみたいだった。
 とにかく、お願いねとだけ念を押して、お弁当を食べ終わった詠子は花垣くんに別れを告げた。


 さて。
 詠子と違ってお弁当を教室から持ってくるのを忘れた花垣くん>氛气^ケミチは騒ぐ腹の虫に悲しくなりながら、パン販売機を目指して階段を下りていた。

「まさか、同じクラスに場地さんの従妹がいるなんてなあ……」

 空腹を誤魔化そうと考え事をしながら歩いていると先ほどのことばかりが思い出されて、ハアとタケミチはなんとも感嘆のため息を吐いた。と同時に、気付いた。気付いてしまった。
 つい先ほど、場地の血縁であることは誰にも言うなと詠子は言っていた。ついでにそんなことは一言も言っていないが、もし話したりしたら今度こそ本当に殴るとでも言うように目が笑っていなかった。

「つまり、千冬にも言っちゃいけないってコトか……!?」

 こうしてタケミチは相棒たる千冬や東卍の面々への、大きいのか小さいのかもわからない隠し事が出来てしまったのだった。
 どうしようと悩むタケミチは考えもしていなかった。詠子に殴られる以前に、花垣武道がお昼休みに彼女ではない女子と連れ立って教室を出て行った≠ニいうコトを知ってしまったヒナタによって放課後とっちめられることを……。



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