新月


 その夜、綾は藍染に呼び出しを受けて、彼の自室へと向かった。呼び出しといっても、他人の目から見て明確に指示があったわけではない。藍染が彼女に、心の中で呼びかけただけだ。まだ出逢って数週間だというのに、彼はすっかり彼女の読心能力を利用して指示を出すことに慣れていた。


「藍染副隊長、お呼び出しを受けました月下です」

「ああ、入りなさい」


 許可を受けて戸を開けると、藍染は死覇装とは違う、鶯色の着物に唐草の羽織を肩からかけて、何やら紙に筆を走らせていた。失礼致します、と声をかけて中に踏み入ってから、綾は彼の後ろ、八尺程の距離を取って正座した。少し待っていてくれ、という声にも何も応えずに、彼女は静かに、筆の音に耳を澄ませていた。

 静寂は心地良い。誰の目も見ず、ただ耳触りでない音に耳を傾ける時間を、彼女は心の底から好んでいた。

 そうしてどれだけ経っただろうか。少し眠ったような気もする。静かな吐息とともに筆が丁寧に置かれ、藍染が振り向いた。彼は眼鏡をかけていなかった。


「眼鏡、平気なの?」

「あれは伊達眼鏡だよ」


 ふうんと呟いて、綾は微笑んだ。部屋の中に入ってしまえば、会話を聞く者に気を付ける必要もないから、敬語は自然と解けていた。眼鏡ない方が良い、と笑うが、藍染はそうかい、と呟くだけだった。

 彼によれば、要件は仲間たちとの顔合わせだという。綾はギンとはすっかり打ち解けていたが、もう一人の仲間であるという東仙要とはまだ面識がなかった。九番隊第五席らしい。盲目と聞いたが、藍染は仲間に引き入れたのであれば、実力は確かなのだろう。彼らが来るまでもう少し待っていてくれ、というので、綾は頷いた。

 時折短い会話を交わしながら、二人は二人だけの世界で、時が経つのを待っていた。東仙要はまだ来ない。自隊の上司でもない藍染の自室へ行くにあたって、周りを警戒しているのかもしれない。そして、藍染もそう思っているらしい。


「今日ね、卯ノ花隊長と話したの」


 二人の世界を壊したくないとでもいうように、なるたけ静かな声で綾は言う。彼女は静寂が好きだった。


「五番隊に打ち解けてるみたいで、何よりだって」


 "貴女を冷たいと感じる人もいるでしょう。"
 全部分かっている。彼女は思う。自分はどう考えても異端者なのだ。それでも、能力を必死に隠して、何も気付いていないふりをして、人の中を生きていくことの辛さといったら。


「笑っちゃうよね。私が、人と距離を取ってるって、それで冷たく見られるって、」


 誰かに嫌われても、気付いていないふりをして笑う。突然やってきた女が四席に就任して、ふざけるなという初見の怒りにも、気付かないふりをしてよろしくと頭を下げる。そんな行為を続けなければ生きて行かれない自分が、どれだけの苦痛の中にいるのかが、一体誰に分かるというのか。


「これじゃまるで、私がこの世界に居るのが、悪いみたい」


 立ち上がり、音を立てずに男に歩み寄る。彼はそれを咎めるでもなく勧めるでもなく、黙って彼女を受け入れる。

 嗚呼、ひょっとして私は、この男の"これ"に惹かれたのだろうか。

 何一つ諌めずに全て受け止めてくれる人など、彼女の記憶の内には一人もいない。まして、彼女の能力を知った後で。自分が今迄数え切れないほどの死神を騙し欺き生きてきたのだと、それさえ知った、その後で。


「何を泣くことがある?」

「嘘、泣いてないよ。何でそう言うの?」

「……いや、それならそれでいいんだ」


 君が泣いてないというなら。

 藍染の心は優しかった。初めに持っていた興味も好奇心も征服欲も、その全てがすっかり姿を変えて、彼女を護るものに為っていた。綾は、そんな自分にむけられた純粋な好意を、素直に受け取る方法を知らない。だから卯ノ花の配慮にも、笑って曖昧にやり過ごすことしか出来ない。例えその言葉が、意に反して彼女を傷付けていたとしても、そこに含まれていた彼女の親心のような心配は本物なのだから。

 なんて、なんて狡い人間。


「やっぱ、―――……」











「ああ、漸く来たかい。済まないね、手間をかけて」


 部屋の外にやってきた二つの霊圧に、藍染は小さく声をかける。失礼しますという挨拶とともにやってきた東仙要が、彼の主人の、その腕の中に存在する気配に首を傾げる。ギンは既に彼女と親しんでいるが、それでも二人の距離に少しだけ驚いたようだ。


「藍染隊長、その者が?」

「ああ、月下綾くんだ」


 藍染の腕の中で、綾は眠っていた。青白い頬に僅かな涙の痕を認め、少年がぴくりと眉を動かす。彼の霊圧が上がったことに気付いてか、藍染が苦笑した。泣かせたのは自分ではないよと、主張するように。

 要、ギン。呼びかけた名前に反応した二人に、呟く。


「世界というのは、やはり腐っているね」


 綾は死にたがっていた。その能力を持つ者故の苦しみに耐えるのが辛かったのだろう。泣きながら、泣いてない、と強く言い張る彼女が、今夜初めてありのままの姿を見せたのだろうと、藍染は感じていた。泣き疲れて眠ってしまった彼女の髪を撫ぜると、最初彼女と出逢ったときの興味本位の感情は、いつの間にかすっかり消え失せていることに気付く。


―――やっぱ、死にたいなあ……


 月は全て欠けきって、少しも輝いていなかった。月の代わりにと星たちが空を覆い尽くしている。
 藍染が綾への気持ちの変化に気付き始めたのは、そんな、静かな夜のことだった。



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