月下


 すべてを嘲るような月夜の下で、この世界に生きる誰よりも、死にたがっている死神を見つけた。

「死にたいの、わたし」

 死神でそれをーー死ぬことを恐れる者は、けして多くはない。何せ一度死んでいる者たちだ。未知の領域だって、踏み込んでしまえば何ともないのだから、死に恐怖する者がいれば、彼らはそれを愚かだと嗤い、貶し、蔑める。しかし、彼女の胸に燻る死への執着は、死神の大半が持ち合わせているような生温いものではなかった。それは、死んでもいい、という譲歩ではなく、死にたい、という切望だった。

 藍染惣右介が、そんな自殺志願者の死神と出逢ったのは、一つの欠落すらない満月が、不気味すぎるほどに明るく昇っている夜中のこと。



 その日、藍染惣右介は心なしか機嫌が良かった。月影に照らされた隊舎の庭の様子が、彼の心を穏やかにさせていたからだろうか。あるいは、ついこの間"何者か"に殺された自隊の三席に代わってやってきた少年が、珍しく真面目に(彼にしては、という注釈はつくのだが)仕事をこなしていたからだろうか。

 とにかくどちらにせよ、顔にこそ出さないものの、彼はすこぶる上機嫌だったのだ。時刻は丁度、日付を跨ぐかどうかといったところ。ほとんどの隊士は自室で深く眠っている頃合いだろう。それでも藍染は、障子の薄い膜を通してでも彼を捉えようとする月の光線に耐え兼ねて、寝間着のままこの庭へとやってきた。ここまで見事な光を放つ月を、一目見ようという気にさえなっていたのである。

 空は一面を月が支配している。雲ひとつない空に、大きな満月。美の概念として考えると、あるいは完璧すぎるかもしれないその光景に、藍染はすぐ目を奪われた。大昔から伝えられている、月の持つ魔力とやらが本当に存在するのならば、彼が惹きつけられたまま抵抗できなかったのは、それのせいなのだろう。

 そしてまた、きっとそれが原因だった。彼が、自分の後ろにそびえる隊舎、その屋根の上に、抑え込められた霊圧が在ることに気付かないでいたのは。


「何でそんな顔をしているの? 藍染惣右介」



 女が、いた。

 女は満月を前方に臨み、屋根の上から藍染を見下ろしていた。明るすぎる月の光のおかげで、女の顔は、庭から隊舎の屋根までという距離があったにも関わらず、とても鮮明に見ることが出来る。流麗な動作で危なげなく庭に飛び降りた女を、彼は素直に、綺麗な女だと、そう思った。

 女は腰に斬魄刀を提げていたが、敵意は微塵も感じられない。しかし、彼女自身が抑えているせいで分かり辛いが、その霊圧は大したものだった。藍染がそう感じるくらいなのだから、恐らくは相当な実力者なのだろう。

 こんな女が、護廷十三隊に居ただろうか? 記憶を辿ってみるけれど、彼の中には思い当たる人物もない。

「四番隊第九席 、月下綾です。あなた、五番隊副隊長さんでしょう?」

 そんな藍染の内心を"見抜いたかのように"女はあっけらかんと言い放ち、縁側にそっと腰かけた。あ、と思い出したような声をあげてから、私、貴族出身じゃないから、言葉遣い勘弁してくださいね、と言う。ほとんどの隊員は席官であれ、隊長格にはかなり畏まった敬語を使うものだったから、確かに藍染は、女の自分に向けた喋り方に微かな違和感を憶えた。しかしその根幹は、敬語の丁寧さなどにあるのではない。

「あなたが私を知らないのは、私が普段はもっとちゃんと霊圧を隠しているからですよ。卯ノ花隊長にもバレないくらい頑張ってるし」

 女は、

「……月下綾、といったね」

 仮にも副隊長である藍染のことを、塵ほども畏れていなかったのだ。

「慣れないのなら、敬語は使わなくて構わない」
「あ、どうもありがとう。優しいね」

 ごくありふれた平凡な実力しか持たない死神であれば、隊長格を畏怖する気持ちを多かれ少なかれ持っているものだ。それだけ隊長格の力は一般隊士とかけ離れている。言うなれば、鼠返しになった崖の上にいる者たちと、それを仰ぐので精一杯な者たちのようだ。けして埋めることのできない溝がその間にあって、しかもその向こう側にはいくら手を伸ばしても届かない。そんな残酷な相互性があるのだとしたら、どうしてその絶壁の上から自身を見下ろす強者たちを、恐れずにいられるというのか?

「敬語はあまり得意じゃなくて。何ていうか、肩が凝ってくる気がするから。わかるかな、この感じ? あなたは一般隊士ほどは敬語を使わないとは思うけど」

 女は二分程一方的に喋りつづけた後、ううんと唸って肩甲骨から腕を伸ばしほぐして、何も言わずにいる藍染に気付き苦笑した。ちょっぴり肩を竦めるような、幼子がちょっとした悪戯を咎められるときのような、そんな仕草だった。結局敬語を使わずとも、喋ることで肩は凝るのだろうなと思った。


 四番隊第九席、と女は言った。月下綾、と名乗った。その名を、藍染は本当に聞いたことがなかった。その事実が、得体の知れなさが、想定以上に、彼を混乱させている。

 彼女が本気で霊圧を隠し、弱者を装ったとして、それでもせめてこの会話中の違和感に、卯ノ花は気付かなかったのだろうか。喋ったその雰囲気を、空気を肌で感じても尚、彼女は崖の上にいるのだと、いるべき人間なのだと、分からなかったのだろうか。あるいは、彼女がそれすらも隠してみせたのだろうか?

「"なんでそんな顔をしているの"、と言ったね」

 それからまた数分。満月をぼんやり眺めていた女に、藍染はふと問うてみた。女の首がゆっくりと藍染を振り向き、赤茶の長髪がさらりと肩を滑り落ちる。死覇装の袷から、傷一つない白が覗いて見える。

「あれは、どういう意味だ?」

 女は緩慢とした動きで首を傾げ、唇を濡らした。それは酷く扇情的に、月光に照らされて淡く光る。こんな美しい女が護廷に存在することを、知っている男はどれだけいるのだろうか。藍染の女に感じた美しさは、その動作やふるまいから感じられる気品のそれであったから、殊更知る者は少ないかもしれない。

「そのまま。あなたが少し、顔を顰めていたみたいだったから」
「顰めた? 文句の付け所もない月夜だというのに、なぜ顔を顰める必要がある?」
「それ、嘘」

 鋭く告げた。女の声は、刀の切っ先よりも鋭利な響きを持って、月明かりの中に散った。急な言葉の音色の変化に一瞬言葉を失った藍染に、追い打ちとばかりに女はまた言った。嘘、と。嘘でしょう、と。

「あなたは確かにこの満月に不満を持ってたはずだよ。美を表すものとしては、あまりに、完璧すぎるんじゃないかって」

 空は一面を月が支配している。雲ひとつない空に、大きな満月。美の概念として考えると、あるいは完璧すぎるかもしれないその光景に、藍染はすぐ目を奪われた。

 予期せず込み上げそうになった笑いを殺して、藍染は縁側でのんびりと月見を続ける女に歩み寄った。女の頬が青白く光っているのを、女の口許が誰かのように歪んでいるのを見た。不気味なのだ。だが、それ故に美しい。

「綾。君は、なんだ」

 その気になれば今にも折れてしまいそうな細い首に手を触れると、ささやかな彼女のそこに生きている証が、温度を持って彼の手を伝っていく。女は、身を引くこともしなかった。何もしないまま、ただ笑みだけをその端正な顔に貼り付けて、藍染の声を聞いていた。

 どれだけ時間が流れただろうか。私ね、と。口を開いた女は、泣いているようにも見えた。

「読めるの、人の心が」


 辺りは闇に呑まれている。時折弱々しく吹く夜風だけが音を為し、二人の袴を揺らしていた。

(141004 加筆修正)

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