十六夜 苦しかったのか悦ばしかったのかさえ分からない、しかしそれは彼にとって本当に忘れがたい事件だった。つい先程に起こった出来事のように、色鮮やかに脳に刻み込まれているのだ。 藍染惣右介は考える。けれど、明晰な頭脳を持つ彼でさえ、いくら考えても答えは出ない。ただ意味のない問いを繰り返し続けながら、徒に日々を過ごすばかりだ。 「どうですか、藍染副隊長。あの子の様子は」 そんな中、卯ノ花が藍染のもとを訪れたときには、五番隊第四席だった女が何者かに殺されたあの夜から、早くも一週間が経過していた。 「いえ、まだやはり……。あの子は彼女を慕っていましたから」 物悲しそうに首を横に降る藍染に、卯ノ花も彼の心中を悟ったのだろう。時々様子を見に行ってあげてください、とだけ言い残して、来たときと同じように、ふらりと執務室を去っていってしまった。一人きりになった空間で、藍染は眼鏡を外すと、また深く溜息を吐いた。 ―――眼鏡、ない方が好きだな そう言ったのは、はたして誰だっただろうか。 藍染は立ち上がり、やりかけた書類を残して部屋を出た。彼も彼で、珍しくどこか参っていたようだ。いつもなら半日とかからず終える書類整理が、先程から一向に進まないのだから。誰かに何かを問われるのも億劫で、瞬歩で目的地へと飛ぶ。二、三度その部屋の扉をノックしても返事がないので、中に向かって声をかけた。僕だよ、と。 「ふくたいちょ、さん」 「入るよ、ギン」 やはり中に少年は居て、まだ幼い顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、布団の上に座っていた。まだ泣いているのかい、と慰めるように優しく訊ねると、返ってきたのは、泣いてへん、という明らかな嘘だった。藍染はしかし何を咎めるでもなく、ただ黙ってその銀髪をそっと撫でてやった。こんなことは、平生の彼なら絶対にしない。彼もまた少年と同じく傷心していたのだ。 ボクな、と銀色は口を開いた。 「綾ちゃんはな、あんな悲しい能力なんて持ってなくてな、全部全部思い込みやったんやないかて思うねん」 幼い心には、まだショックが強すぎたのだろう。この少年とて、彼女の死を受け入れていないわけではない。あの夜、藍染が彼女を刺し殺した直後に少年は飛んできて、その場で号泣した。結界を張っても外に漏れてしまうのではないかと思うくらい声高く泣きじゃくった。それでもその声は、そんな少年をいつも慰めた彼女にはもう届くはずもなくて。 「……そうか」 少年は、藍染を責めなかった。 「そうだと、いいね」 優しい同意に、少年はまたその細い目に涙を浮かべる。 無言で泣き続ける少年の背を摩りながら、藍染は考える。あの十六夜の月見のことを考える。彼女はいつも通り、ふらりと自室に現れた。だから月見に誘った。満月ではないのに、どうして月見をするのかと彼女は問うた。藍染の目を見て、そう問うたのだ。 あのとき感じた違和感の正体も、今になってやっとはっきりわかった。 目を見ていた。彼女は藍染の目を見ていた。それなのに、どうしてわざわざ口に出して問う必要があった? 目を見れば全てが読める彼女にとっては、その行為は完全に無駄なものではないのか。 だとすれば、少年の考え、或いは願望とも取れるそれは、案外的外れではないのかもしれない。彼女の心を読む力はもともと不完全だったのか、また或いは崩壊に向かっていたとしたら―――。 見ているか、と藍染は心の中で問いかける。部屋の窓からぼやけた輪郭を覗かせる月にむけて、呟いてみる。今夜は月がそこまで明るくない。月が世界に落とす青い影は、あの夜から随分と色を薄めていた。見ているか、僕はここにいるよ。それだけの光があれば十分だろう。きっともう僕を見失うこともあるまい。だからもう恐れる必要なんてない。 雲が月の欠片を覆っては、また流れていく。世界を包むやわらかな月光が、ただ音もなく、その明るみを取り戻していった。 fin. prev / next [ back to top ] |