愛世


 空が泣いている、そんな風に雨空を表現した方がいらっしゃるらしい。それに擬えて言わせてもらえば、今夜の月は、まるで泣いているようだった。世界に降りそそぐ青白い月の影を、月の涙とでも表してみよう。そうすればほら、私とあなたの世界を、月の涙が余すところなく包み込んでいる。いや、もしかしたら、泣いているのは私だったか。


「口にすべきでない冗談があることを知っているかい? 綾」


 惣右介の声はいつになく怒っているようだった。


「一緒に帰ろう」


 どこへ? そう聞き返した私の顔は、大層滑稽だったに違いない。ねえ、どこへ帰るの? どこへ帰ればいいの? またあなたの後ろであなたを盾にして、ずっと辛いことから目を背け続ければいいの? あなたがつくってくれた世界は、あなたを傷付けずにはいられないものだったんだ。私がそこにいる限り、あなたはこれから先ずっと重荷を背負うことになるんだ。

 差し出されたこの手を取れば、


「できないよ」


 またあなたが傷付くことが分かっているから。


「惣右介、私がさっき言ったの、聞こえなかったの?」


 永遠にあなたを傷付けるのが私ならば、そんな存在、消えてしまえばいい。


「殺して、って、言ったでしょ」


 ねえ、惣右介。

 私の居場所を作ってくれたのはあなたなの、惣右介。私はあなたが好きだった。言葉に出来ないくらい感謝もしてたし、あなたとずっと一緒にいたかった。あなたも、確かに私を愛してくれていたから。

 だから、お願い。この愛しいあなたを傷付けることしか出来ない私のちっぽけな命を、あなたの手で終わらせて。


「綾、」

「ごめんね、惣右介」


 今更と言われるかもしれない。愚か者と責められるかもしれない。それでもいいから、どうか謝らせて。私は最後まであなたを傷付けて逝きます。でもごめん、我慢してね。これで最後だ。私があなたを傷つけるのは、これで最後にするから。


「ごめん」


 月が泣いている。月の涙が落ちてくる。それはとてもあたたかかった。

 惣右介は目を伏せ、そっと息を吐き出すと、私を抱き締めた。その手が震えていることに私は気付いてしまって、そうしたらもう止まらなかった。何かの螺子が壊れたように溢れる涙がぼろぼろと、惣右介の死覇装の肩を汚す。赤子のように嗚咽を零す私を、彼は何を咎めるでもなく、黙ってただ背中を撫でていた。


「さよならだね、惣右介」

「ああ、そうだね」

「大丈夫だよ。私はさ、きっといつかあなたと見た十六夜の月の一部にでもなって、あなたのこと空から見てるから」


 涙の音が聞こえた。泣いているのは私か惣右介か、はたまたあの神々しい月か。

 ああ、ここはなんて愛しい世界だろうか。世界はこんなにもあたたかで柔らかで、冷たい涙をそっと拭き取ってくれるような、こんな優しい場所だったというのに、どうしてこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。惣右介の胸の中はあたたかくて、本当に本当にあたたかくて、全身の冷え切った体温がやっと命を取り戻したようだ。

 たとえ何が間違いだったとしても、私が惣右介とともにあった時間は、本物なんだ。

 それだけで、もう何も怖いことはない。それさえ思えば何でも出来る。


「愛していたよ、綾」


 惣右介の緩やかに低い声が、鼓膜を震わす。音が聴こえなくなっていくのを、視界がぼやけていくのを、私が怖がらないようにと抱きしめ続けてくれる惣右介の体温が、私の世界を最期まで包む。



 さようなら、さようなら、惣右介。好きだったよ。




 優しい夜だった。遥か遠い空の中に、完璧なまでに美しい三日月がただぼんやりとその輪郭を鈍らせながら、静かに青白い涙を流していた。




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