崩壊


 どれだけそこに立ち尽くしていただろう。吹きつく風がいい加減肌寒くなってきた頃合いに、彼女は自分の名を見知った男が呼ぶのを聞いた。


「来なさい、綾」

「そう、すけ」


 藍染は鋭い男だ。きっと彼女が振り向いたその顔を見たとき、その頬に残る涙の痕をも認めていたに違いない。が、彼はそれに触れることはせず、命じても動かない彼女に、やれやれといった様子でその白い手を握った。

 世界は夜の闇に包まれていた。自分を引き連れて歩む前の黒い背中を、綾はぼんやりと見つめていた。


―――いつか、お前がそれを話してもええと思えるようになったら、

―――大丈夫やで、綾


 彼になら、と綾は思った。彼になら、話しても良かったんじゃないだろうか。自らの能力の総てを、暴露しても良かったんじゃないだろうか。それは、彼女が生涯で初めて抱いた、他人への大きな許容感だった。藍染に秘密を話したのは、あの瞬間が、最早死を目前に覚悟していたものであったからで、つまりは今更誰に何を言おうと変わらないと、そんな自棄を交えた告白だったのだ。事実、藍染から死後について教えられなければ、彼女はあの満月をゆっくり眺めてから、世を去るつもりだった。藍染に総てを話したのは、幸か不幸か、彼女が心を許してのことではなかったのだ。


「ねえ、惣右介、どうしても……」

「何だい?」


 自分がこんなにも情けないだなんて、知らなかった。これでは彼に見捨てられてしまうかもしれないと思いながら、綾はどこか、むしろその方が良いのではないかと思い始めた。君がそこまで意志薄弱な女だとは思わなかった、期待外れだ。いつも彼女と他の仲間以外の他者を見るような冷え切った目で、そう切り捨ててくれれば良い。


「どうしても……、殺さなきゃ駄目、なの?」


 心というのは、どうも思い通りにはならないものだ。綾は静かに、それでいて凄惨なまでに自嘲する。今までこの絶大な能力を疎みながら、しかし何よりもそれに頼り甘んじ護られていたのは自分ではないのか。こんな能力があるから仕方ない? 他人を許容できないのは当たり前? そんなの馬鹿げている。彼女はそれをここ数日で泣きたくなるほどに突き付けられていた。


「彼じゃなくたって、いいでしょ? ねえ、惣右介、だってあの人は、」

「綾」

「違うの、惣右介、違うんだよ……。彼は、平子隊長、は、」


 一体どこから壊れ始めたのか。ようやくこの世界を憎まなくても生きていけるようになったのに、どうしてその世界を構成する大切なひとつを、自分が壊さなくてはならないのか。綾は、自分がありえないほど我儘で、自分勝手で、それでいて弱く見苦しい女だと感じた。こんな自分を、彼がまだ愛しいと思っているわけもないと。

 なのに、振り向き彼女を見た、その目が映し出す心は。


「……すまない」


 零れ落ちた謝罪の後、藍染の手のひらが容赦無く綾の視界を覆う。まもなく崩れ落ちた彼女を壊れものを扱うように優しく受け止め抱き上げると、彼は雲が掛かった三日月を数秒仰ぎ、瞬歩でその場から姿を消してしまった。

 どこか遠くで、獣の咆哮が夜空を震わせていた。



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