焦燥


 君の世界はもう出来上がっている、と藍染は言った。

 綾が藍染と共に布団に入ったあの夜(しかし彼が手を出すことはなかった)の明け方、珍しく朝早くに目を醒ました彼女ではあったが、藍染はそれよりも早くに仕事へ行ってしまったらしい。前夜のことなど一切引き摺らない、素晴らしい勤勉さである。

 眠い目を擦りながら半刻ほどを布団の中で、彼の体温が僅かに残るそれに身を包みながら、綾はその言葉の意味を考えていた。


『存分に休めばいいさ。もう君の世界は出来上がっているのだから』


 私の世界。
 私が望み続けてきた、私がありのままであれる世界。
 私は惣右介によって見つけられた。惣右介が私を見つけてくれた。
 だから私の世界は、その中心には、必ず惣右介がいる。


 綾は猫のようにするりと布団から這い出て、寝ている間に乱れた着物を手早く整えてから部屋を出た。もう一般隊士も業務を始めている時刻。誰かに見られてはたまらないと、滅多に使わない瞬歩で自室へと戻る。と、


「綾ちゃん」

「……ギン」


 部屋に戻ったのとほとんど同時にかけられた声に、綾はさして驚くことも無くその名前を呼んだ。振り向けば、見慣れた銀色が視界に入った。


「何か用?」

「あのな、その、」

「君が、月下綾か」


 少年の声に被さって響いた声。少なくともギンとは違う、大人の男性のものだ。それでいて聞き覚えはないその声に、綾は訝しげに目を細めながら、部屋の入口にいつの間にやら立っていた黒い男を見た。黒い、というのは、雰囲気がとか服装がとかそういうのではなくて、肌の色が、だ。


「そうですが、……あなたは、」


 口に出して訊ねてみて、綾は嗤いたくなった。自分の中に、こんなに大きな不安を持ちながら他人にものを訊ねることなど、生涯ないだろうと思っていた。いや、それはもしかしたら、不安とはまた違う何かだったかもしれない。でも分からない。それは―――目を合わせられない盲目の他人に会うことなど―――綾にとって初めての経験だったから。

 ああ、そうだ、盲目といえば、


「東仙要だ」


 藍染の仲間で未だ会していないもう一人もまた、そうだった。

 頷くと、男はそれに気付けるはずもないのに、まるでそれを確認したかのようなタイミングで傍のギンに外すよう促した。心配げに自分を見る幼い狐目に、綾は微笑む。本当にいつだって、彼の心は悲しくなるほどに純粋だ。その心が向けられた当の本人はそれを受け止める覚悟もないのに。

 幼い少年がとことこと出て行ったのを霊圧で確認したのか、東仙は静かにこう切り出した。


「藍染副隊長からお聞きしている。人の心が、読めるのだそうだな」

「あなたのような方を覗いてね」

「やはり、私の心は読めないと?」

「うん、目が見えないみたいだから」


 或いは差別的と取られる発言だったかもしれない。綾は長い間、言葉ではなく目を介して一方的な意思疎通を図っていたのだから、その"目"が見れなくては、最早彼女には心を伝え合う手段が奪われてしまったようなものなのだ。その不確実さが彼女の心に酷い焦燥感を与えていた。


「藍染様は、あなたをとても大切に思っておられる」


 焦燥の足音など、とうの昔に聞こえなくなってしまったはずなのに。


「あなたは藍染様の隣にいらっしゃるべきお方だ。これから先も」


 どうしたのよ、何いきなりそんな畏まっちゃって。
 三人称が変わったことにも気付かないふりをして、そう笑ってやるつもりだったのに、どうしてだか少しも笑えなかった。顔中の筋肉が引きつってしまったみたいに硬くて、自分が今どこに立っているのかさえも危うく感じる。眩暈がする。



 そうだ。惣右介が私を見つけてくれた。惣右介が私を救ってくれた。
 私の世界を創り上げたのは彼で、その中心には彼がいて、だから、私は、彼の隣に、

―――隣に……?



 綾は本当に分からなかった。胸が、心臓が鎖に巻かれたみたいにきりきりと痛んで、呼吸の仕方も忘れてしまう、そんな気がした。昨晩の月を見たときと同じ心地なのに、何かが違う。あのときは、こんなにも苦しくなかったのに。


「そうだね」


 きっとまだ、新たな世界に慣れていないだけなのだろう。呼吸が苦しいのも、きっと新しい酸素に、心が対応出来ていないだけなのだろう。だから何も心配はない。もう苦しいことなんてあるはずがない。

 あったとしても、きっとまた惣右介が救ってくれるから。


「私は惣右介に尽くすよ、これから先も」


 告げた言葉は、綾自身にも意外なほどに落ち着いていた。しかし、彼女はやはりどうしても、ずっと癖のようにやっていた笑顔を浮かべることが出来なかった。



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