世界 ![]() 尸魂界の夜は寒い。死覇装一枚では、吹きつける風の冷気には堪えない。綾は袷を掴んできつく寄せながら、身を縮こめさせて、薄暗い廊下を静かに歩いていた。向かうは藍染の自室だ。 ここ最近、彼女は藍染の自室に行くことがすっかり習慣化してきている。無論毎日というわけではないが、時折何かと思い立てば、大した遠慮もなく猫のように、突然彼の部屋に姿を現すのである。結局、淋しいのだ。夜にひとりでいるということが。 藍染はといえば、その度に、まったく君はと苦笑するのだが、そんな彼の心にけして諌める思いがないことを、彼女は当然知っていた。彼女は、自分の大きな孤独感には微塵も気付いてはいないのに、他人の感情だけは少しの欠落もなく見抜くことが出来たのだから。 「惣右介」 「来たか、綾」 ただ、その日の藍染は違った。普段綾が訪ねてくる頃には大抵寝巻きに着替えているのだが、その夜の彼はそうではなかった。昼間と同じ死覇装でこそないが、彼が着ていたのは、明らかに上物の着物だった。こんな、目で見てもすぐ分かる程に高価な着物を寝巻きにする物好きはそうそういまい。 「来たか、って」 「君と月を見ようと思ってね。今日は十六夜だろう」 「そうだけど……」 綾は首を捻った。十六夜。そう、十六夜だ。曖昧な暦において、それが満月のときも確かにあるけれど、今日は違う。満月は暦上昨日であったはずだ。今日の月は輪郭が目でわかる程度には少し痩せて、歪な図形を描いている。 綾の態度に、疑問を察したらしい藍染は、黒い羽織を肩にかけて、笑った。 「今日が満月でないのは知っているさ」 「じゃあ何で?」 「……、君が言ったのではなかったかい。満月では完璧すぎるのだと」 「ああ、言ったかもね、そんなこと」 忘れちゃったとおどける綾に、藍染は溜息を吐いてその手を取った。紺の着物から覗く手は、月明かりに照らされると病的なまでの白さが一際目立つ。藍染はその手に、一つ一つの指先に自分のそれを絡めると、部屋を出、ぺたりぺたりと暗い道を進んだ。 「惣右介」 「何だい」 「どうして分かったの? 私が今日来るって」 弱い風に攫われそうになる髪を片手で抑え、彼女は前を行く藍染の背中に尋ねる。彼の目は前の夜闇を向いていたので、彼女にその心を聞く術はない。数秒の間をおいてやってきた返答は、勘、だった。 随分と簡潔な理由で何よりである。 「流石だね、惣右介」 「お褒めに預かり光栄だよ」 「また思ってもないこと言って」 「おや、お気に召さなかったかな」 二人の体温が繋がれた手を橋にして、溶け合うように等しくなっていく。藍染の手は、あたたかかった。どこまでも冷え切った彼女が、その温度を奪う。 否、こう言った方が正しいかもしれない。寒がる綾に、藍染が温度を分け与えているのだと。 「そんなわけないじゃない」 綾はぽつりと呟いた。しかしその声は、あまりに小さすぎて、彼女の手を引く彼には届かなかったようだ。 惣右介のくれるものなら、なんだって、気に入らないなんてあり得ない。あなたはいつだって、私が欲しいものをくれるのだから。 「ほら、ご覧」 促されて見上げた空は、歪んだ月がそこだけ切り取られたかのように明るく輝いていた。完全な円形ではなくて、きっとその形を表すのに、的する言葉はないのだろう。だとしたら、その月に十六夜と名付けた誰かは、大層情趣のあられる方だ。 声は出なかった。この上なく素晴らしい歪に、呼吸までも奪われてしまう心地がした。 「綺麗な月だね、綾」 「……うん」 藍染の言葉は、何かを慈しむように柔らかく、静寂の夜にそっと音を添えていく。その筋張った手の先、繋がる体温の向こう側に、彼の慈しむものは、あるのだ。脆く儚く、その気になれば今にも握りつぶせてしまいそうな危うさを内包した弱い死神が。 そうだ、綾はきっと、本当に弱く、弱く脆い女で、 「完璧じゃないのって、素敵だね」 そして、そうあることを心の奥底から強く望んでいた。 他人の前で気取らずにそうあれることを。強くなくても、弱くても、何もかも赦される世界を。"普通"の死神を完璧に演ぜずとも、彼女が能力を隠さなくても、赦される世界を。 そうだね、と藍染は微笑んだ。 「完璧でないということは、まだ進歩出来るということだ。そこには未知の可能性がある。無限の未来がある。だからこそ、完璧でないものは、時に完璧な何かよりも素晴らしく輝いて見えるんだよ」 彼女の脆さに気付いた者など、きっと彼を除いて他にはいないだろう。彼女は今まで何処ででも"完璧"に普通を演じてきたのだから、彼女の心の葛藤を、その弱さを、見つけた者などいるはずがないのだ。 彼女が初めて彼女自身の"完璧"を壊したのが、もし彼の前でない何処かだったらーーー。 「だから僕には、君が素晴らしく愛おしいんだ」 彼女にそれを知る術はない。彼女は藍染を選んだ。自分の世界を、彼を中心とする場所に選んだ。それが彼女を結局はやがて苦しめることになるのだけれど、今の彼女にも、そして藍染にも、それを知ることは出来ない。 「もう、疲れたよ」 「存分に休めばいいさ。もう君の世界は出来上がっているのだから」 満月より少し欠けた不完全な月が、そんな二人を黙って見下ろしていたが、綾にはそれを仰ぐことが出来なかった。視界に男の端正な顔立ちが写って、そのままぼんやり目を閉じてしまっていた。今の彼女には、重ねられた唇のあたたかな感触しか分からない。彼女にはそれしか分からない。それを思うと、どうしてか、とても泣きたくなった。 怖ければいつでも戻ればいい。泣きたければいつでも縋ればいい。この柔らかくて弱いところをひけらかして、存分に甘えてしまえばいい。藍染のいる世界へ。完璧でない私を赦してくれる世界へ。 夜が明けるには、まだ、早い。 prev / next [ back to top ] |