愛憎


「綾ちゃん、起きてはる?」


 意識の覚醒は甲高い少年の声によって。障子の向こうから控え目に投げかけられた問いに、綾はまだはっきりしない意識のままに掠れた声で返事をした。随分と深く眠ってしまった。おかげで喉が水分を渇求している。

 障子を開けてするりと部屋に入り込んできたギンは、そろそろと彼女に傍まで寄って、座った。その仕草が彼にしては珍しく年相応のあどけなさを持っていたので、彼女は思わず身を起こし、彼の銀髪を撫でた。くすぐったそうに目を細めている(ように思える)彼は、まるで猫のようだった。


「お昼休憩?」

「せやで、綾ちゃんお昼食べたん?」

「うーん、まだだけど、とりあえずあんまお腹空いてないからいいや」


 そんな会話をすると、ギンは途端に不安そうに首を傾げ、まだ調子悪いん? と言う。綾は笑って首を横に振った。彼女はもともと、そこまで食べる方ではないのだ。しかも午前中はずっと眠って、ほとんど霊力を使っていないのだから、お腹が空くはずもない。

 午前中の執務はさして忙しくなかったらしい。自分の抜けた穴を惰性ながら心配していた彼女には有り難い知らせだった。話に寄れば、ギンは、昼に自分に会いに行っていい代わりに、午前は真面目に仕事するよう平子に交換条件を出されたのだという。

 藍染が午前は他の隊舎を回ってほぼ執務室に居なかったと聞いたところで、綾はふと、気付いた。そういえば、自分が今寝ているのは彼の部屋だったと。


「ねえ、そういえばここ、惣右介の部屋だよ。わざわざここまで?」

「綾ちゃんがな、熱出してる聞いて……、その」


 もごもごと口篭った少年は、そのまま俯き、黙り込んでしまった。うん?、とその顔を覗き込むと、彼女は、そこで真っ赤になった耳を見つけた。そうして、彼女にしては本当に滅多にないことなのだけれど、自然と微笑んでいた。ああ、そうか。


「心配してくれたのね」


 子どもが大人に成長していく過程で、彼等は必ず、自分の思いを巧く表現する術を身に付けて行く。そしてまた同様に、相手から自分へ向けられた愛情だとか憂慮だとかを、上手に受け止められるようになっていく。それは人と交わるうえでは欠かせないことであり、意識せずとも自然と育っていく能力だ。

 ギンはまだ幼いのだから、周りの大人ほどには自分の感情を巧みに言葉に出来るはずがない。そして、それは彼女にも言えることなのだ、きっと。


「ごめんね、ありがとう」


 こうしてお礼をするだけでも心の準備が必要になるほど、彼女は子どもから成長できていなかった。霊術院の頃から人との交わりを避けてきたのだから、或いはそれは必然であったかもしれない。それでも、今彼女がこうしてギンにははっきり意思を表明できたのは、相応か不相応かの違いはあれ、ギンと自分の幼さがきっと似ていたからに違いない。


「隊長さんもな、心配してはった」

「平子隊長が? へえ」

「隊長さんだけちゃうで、五番隊の人皆心配してはったんや」


 綾の言葉に安心したらしいギンは、今や彼女に抱っこされるような形で、その腕の中に居座っている。ギンは、彼女の熱が能力に起因するものであるということを知らないでいた。藍染は綾の体調不良について、必要最低限しか伝えなかったらしい。


「せやから、はよ、元気になって、綾ちゃん」




 時刻は正午を回っていた。どれだけそうしていただろうか、綾はギンの頭を撫で続け、ギンは綾に甘え続け、そうして二人は長らく沈黙の中に居たのだった。いつの間にか例の気怠さも頭痛も消え失せてしまったが、綾はそんなことなどすっかり意識することもなく、ぼんやりとギンの呼吸に耳を澄ませていた。


 いつになれば、自分は大人になれるだろう。

 他人に自分を上手に伝え、他人を上手に受け止める。何も苦しむことなく、幼い自分を情けなく思うこともなく、そんなことを出来る日が、そうして生きていける日が、いつかやってくるだろうか。こんな罪深い自分にも、やってきてくれるだろうか。

 腕の中の呼吸は、いつしか寝息へと変わっていた。綾はこの少年の未来を思い描きながら、小さく鼻を啜った。

 きっとこの腕の中の子どもは、何をせずともそう出来るように成長していくのだろう。綾を心配する気持ちなどすっかり消滅して、彼女が後ろにぽつんと立っていることにも気付かないまま、前へ進んでいくだろう。他人と上手に繋がれる世界へ、他人と愛し合う世界へ。



 そうしていつか、もし私にもそれが出来たなら、私はその瞬間、この世界を何よりも愛しく思うだろう。



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