彼とともに笑った時間、そのすべてを合計すれば、彼のために流した涙とも釣り合うだろうか。

 爽やかな音をたてて風に揺らぐ緑の中に、虫は喧しく鳴き続けている。執務室は夏独特の気怠さに包まれているけれど、そんなのお構いなしだ。暑さを喚くのもいい加減にしてほしい。地上に出た蝉の余命は一週間だと聞くが、今鳴いている連中が逝けば、また新たな命が地上へと這い出てくる。夏の訪れを謳う蝉は、どいつもこいつも最期が迫っているというのに、こんなにも元気だ。私だったら、最後の一週間はきっと膝を抱えて泣きながら終えるのだろう。私が蝉を好きになれないのは、そんな性分の差によるところも大きいのかもしれない。

 蝉が誰かに何かを訴えるために謳っているのならば、この大合唱の観客は、私たちということになるのだろうか。そんなことを考えていたら、どうやら口に出していたらしく、席で珍しく真面目に書類を片付けていらした京楽隊長に笑われた。


「なまえちゃんはいつも面白いことを考えるねえ」

「意識してるつもり、ないんですが……」

「だから余計に面白いんだと思うよ」


 複雑な心境である。からかわれているようにしか思えないのは、私の心が狭いからだろうか。まだ声をあげて笑っている隊長に、もう何を言っても馬鹿にされる気しかしなくて、私は「書類出しに行ってきます」と言い残して執務室を出た。隊長の「いってらっしゃい」よりも、八番隊の古株だという五席が、ひらりひらりと手を振ってくれたのが、ほんの少しだけ癒しになった。

 外に出た途端、蝉が私を歓迎するみたいにより一層声を張ってみせた。縁側に出た途端にこれでは、ありがた迷惑もいいところだ。お返しとばかりに盛大な溜息をひとつ落としてから、日の光のおこぼれが注いでくる縁側を歩く。死覇装は、どうも季節感に欠けるようだ。見た目は勿論のこと、その性能も、また。深い黒は折角"気持ち良い"で終わるはずの陽光をそれ以上になるまで吸収してしまって、仕方ないといえば仕方ないのだけれど、……暑い。

 さっさと仕事を片付けてしまおう。そう決めて書類の宛先を見たとき、体が強張ったのが自分でも分かった。


『三番隊へ。隊長から了承のハンコを貰ってきてください』


 伊勢副隊長の綺麗に整った字で、そう書き記された付箋が貼ってある。淡い水色のそれは、涼しさを求めずにはいられない夏にぴったりだった。副隊長のことだから意識していなかったのかもしれないが(というか多分そうだと思うが)、その偶然だけはありがたい。三番隊宛てというだけで、私の心の温度は著しく急降下しているのだけれど、それは置いておいて。


「三番隊、かあ……」


 ふと零れた感情のない呟きは、夏の大合唱に埋もれて消えた。



『捨てられたってことでしょ』


 確かにそんな言葉を聞いた。誰かは分からないのに、偶然にも耳にしたその声だけは、嫌というほどはっきり残っている。


『でも、ちょっときついわよね。今迄散々隊長のために実績あげてきてたのに、一回の失敗で見捨てられちゃうなんて』


 派手な女隊士がふたり。女というのはえてして他人の不幸噺が好物だ。私を貶めて愉しみたいのならそうすればいい。彼女らに嘲りを受けることで、私が実害を被ることなんてないのだから。それでも、頭ではそうと理解していても、あのときばかりは確かにきつかった。

 こうして数ヶ月が経った今でも、記憶は色褪せてはくれないものだ。いっそ耳を劈くような蝉の歌が、この記憶を上書きしてくれれば、まだ楽なのに。

 八番隊に左遷される前、私が、まだ三番隊の隊士だった頃の話だ。


「失礼します、八番隊のみょうじです。市丸隊長に書類をお持ち致しました」


 声をかけて入った三番隊執務室。私がやってくることで気まずい雰囲気になることは、重々承知している。吉良副隊長なんか本当に嘘が下手くそな御仁だから、私を見るなりすぐ顔に出してしまう。皆、私が隊長に切り捨てられたことを知っているのだ。「おつかれさま」、呟く彼が疲れているように見えるのは、今日ばかりは市丸隊長ではなく、私のせいだ、きっと。

 銀髪の隊長、私を飛ばした張本人は、奥の隊長用の席に腰を据えていた。八番と三番、不真面目で名高い隊長二人が揃って執務室にいるだなんて、珍しい日もあるものだ。


「こっち持ってきて」


 干し柿を剥きながらそう言う彼に頷いて、近くまで寄ってから書類を手渡す。この際すべてのツッコミはなしだ。いちいちこの男のふるまいを気にしていては身が持たないことは、長い付き合いの中でよく学んでいる。私も彼も、喋るにあたって逡巡するということはない。こんな言い方もよくないだろうが、私たち二人の間の亀裂については、まわりが今だに要らない気を遣っているだけだ。

 市丸隊長は軽く書類に目を通してから判子を押した。こんなにあっさり終わらせられるとは思っていなかった私が内心ひそかに喜んでいると、返されるかと思った書類に、何やら彼が筆を走らせているご様子。随分顔を紙に近付けていらっしゃるせいで、その内容は私からは見えなかった。代わりに後ろで、女席官がぶつぶつ呟くのが聞こえた。


「はい。暑い中おおきにな、みょうじちゃん」

「いえ。執務中失礼致しまし……、?」


 返された書類。指定の位置にしっかり押された判子。しかし今注目すべきはそこではない、伊勢副隊長が張った水色の付箋である。彼女の筆跡の上には、新たな言葉が書き足されていた。思わず市丸隊長を見るけれど、彼は素知らぬふり。問い詰めようとしたところで、再び執務中の女隊士が何か囁き合っているのが耳に入り、思い留まった。もともとここに私がいるだけで、空気は淀むのだ。すっかり私の方を見ようともしない市丸隊長に若干感謝しつつ、険悪の空気に一言添えて部屋を出た。返事は無かった。

 蝉の声がやんだ。あれだけ煩い煩いと文句を垂れていて何だけども、無いなら無いで少し物寂しいものだと思う。結局ひとの欲求は無い物ねだり、何かを得て満足する果てなど最初から存在しないのかもしれない。そうしてそれを言うなら、私と彼の関係などまさにそうだっただろう。

 私と市丸隊長が付き合っていることは、護廷ではよく知れた事実だ。しかし、それが最早過去形になるのかそれとも現在進行形なのかを明確に知る人は一人としていない。そう、一人として、だ。私が虚討伐の際にしょうもない失態を犯したおかげで左遷されたときから、私と彼はすっかり破綻したと認識している隊士が大半なのだけれど、それでも根拠はどこにもない。ただ一人、乱菊だけは正面切って関係の行方を聞きに来たのだが、私は曖昧に笑い返すことしかできなかった。それを彼女がどう解釈したかは、定かではない。そもそも、本人たちですら知らない恋の行方を、他人が理解できるはずがないのだけれど。


『今夜9時、花枯の丘』


 新たな文言を伝える付箋を見つめる。彼に黒を加えられた青い台紙は、真夏に甘味処で出される水菓子みたいに涼しい。こみ上げる感情の名前も分からないまま、私はその付箋を懐に隠して、何気ない様子でまた八番隊舎への道を歩き出した。

 おおきにな、みょうじちゃん。あれから市丸隊長は、人が変わったのではないかと疑ってしまうほどにあっさり私のことを名字で呼ぶようになった。みょうじちゃん。いかにも他人行儀なその言葉に、宝物を扱うように私の名前を口にしていた市丸隊長の声がだぶる。





 少し右に上がる筆跡。筋張った綺麗な指。切り揃えられた桃色の爪。着物の黒と明確に対比される白い肌。滅多に見られない開眼の、その先に覗く水色。それが、彼だ。淡い夏色の虹彩は、あの付箋の色と、よく似ている。


「なんで死覇装なん、色気ないわあ」

「そういう隊長こそ死覇装じゃないですか」

「ボクはええねん、男の子やから」


 花枯は市丸隊長が幼馴染の乱菊とともに生まれ育った場所だと聞いた。地区番号は六十二、結構な治安の悪さである。しかし、以前彼に教えてもらったこの丘だけは、素晴らしく見晴らしがよい、穏やかな空間だ。野花が咲いていたり星が綺麗だったり、恋人が語り合うにはぴったりなのだろう。「まあ、でも、」、静かに零れ落ちる声は、自分でも不思議なほど、震えなかった。


「最後のデートくらい、着替えてくればよかったとは思ってますよ」


 私の言葉に、市丸隊長は微笑むだけだ。その顔には、いつもの胡散臭さは張り付いていなかったけれど。

 彼の横に一人分の空白を開けて腰を下ろす。これがきっと歩み寄れる最大限だ。ややあって、彼は口を開いた。彼にしては珍しく、言い辛そうにしていた。あんな、ボク、色々考えててんけど、……その先に言葉が続くまで、また間が空いた。私は黙って、それを待っていた。


「ほんま、頑張って考えたんや、けど、な。あかんかった」


 うん、と頷いた声は、彼に届いているのだろうか。私よりも余程泣きそうな彼に、普通立場は逆なはずだと考えて、笑いたくもなる。それが意味のない現実逃避だと、分かっていても。

 もしかしたら、彼は私に聞いてほしかったのかもしれない。何を頑張ったの、何を頑張って考えたの、と。そう訊ねれば彼はきっと包み隠さずすべてを教えてくれたのだろうと思う。それでも聞かなかった。聞くことができなかった。それは私の我儘でしかない。彼の背負っているものの大きさに薄々感づきながら、しかしそれを分かち合おうともしなかった、狡くて卑劣な人間の、我儘でしかない。


「別れよ」


 私は。すべてを聞いたときに今よりも不幸になるのならば、最初から無知でいたいと願う人種だった。それを愚かだと嗤うひとは、たくさんいるだろう。


「ごめんな、好きなんや。せやから、別れよ」


 あなたとともに笑った時間、そのすべてを合計すれば、あなたのために流した涙とも釣り合うだろうか。

 意味わかんない。そう笑い飛ばしてやろうと思ったのに、できなかった。彼はさっと寝転がって、私に背を向けた。羽織が汚れるだろうに、声を掛けようと思っても、すべての意思が喉の奥で詰まって引っかかってしまっていた。静かな丘に時折響く、鼻を啜る音は、どちらのものか、きっと一生分かりはしない。分からなくていい。そんな気もする。


枯れた涙の海にて溺死



企画「ざわざわ」様へ提出させていただきます。
素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!





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