(舌も言葉も愛も爛れてしまえば) 



 夜は絶えず世界を覆う。その闇色に紛れて毎晩部屋へとやってくる奇妙な使用人は、この世で最も美味いコーヒーの淹れ方を知っていた。


「若様、コーヒーを」

「んん? ルークか。入れ」


 彼に眠気というものは存在していないのか、"若様"と呼ばれた男は平素と変わらない調子で、壁越しに投げかけられた声に反応を寄越した。静かに押し開けられたドアに向かって、開け放たれていた窓から夜風が流れ込む。それでも、姿を見せた女は顔色ひとつ変えぬまま、ただスカートの裾だけをはためかせてそこに立っている。トレイに乗せられた湯気の立つ白いカップが、一筋部屋を通り抜けている月影に当てられて光っていた。


「何してる、こっちに持ってこい」

「失礼いたしました」


 ドフラミンゴの催促に女は頭を下げると、例の如く窓枠に腰かけている彼のもとへと歩み寄る。黒いヒールが石床にぶつかり、軽快な足音を鳴らした。窓が近付くにつれ、彼女へ容赦なく吹きつける風はその威力を増していき、赤茶の髪が風に攫われて舞うのを、彼は物珍しげに見つめていた。女は彼のすぐ傍まで行くと、ほんの少しだけトレイを前に出す。隠すこともなく鳴らされた舌の音を聞いたとき、今の動作にどうやら誤りがあったようだと彼女は判断したのだが、それが何かはどうしても分からなかった。「分からねェのか」と主がわざわざ問うても、分からなかった。「分かりません」と首を振るしかできなかった。


「相変わらず馬鹿正直だ。腹が立つ」

「申し訳ございません。ところで若様、コーヒーは」

「ああ……、寄越せ」


 寄越せ、と言った割に自らカップをとると、彼はそれを一口で飲み干してしまった。先程淹れたばかりの、湯気さえ立たせる熱い液体である。投げ出すようにトレイに戻された空のカップが、バランスを崩しくるくる踊り子のように回る様を見届けてから、「火傷なさいませんでしたか」と至って平静に問い掛ける。その声の色は、この部屋に立ち入る前とほとんど同じまま。フッフッフ、とくぐもった笑声を男が零しても、女は表情ひとつ変えない。


「心配なんざしてねェくせに、よく言うぜ」

「これでも心配申し上げているのです。舌が爛れてはキスひとつ満足に出来ませんよ、若様」


 ここへ来てから一番長い文章を淡々と口にしたそのとき、女の腕が乱暴に掴まれ、鮮やかなピンクの中へ身体ごと埋もれる。手のひらに乗せていたトレイも大きく傾いて滑り落ち、派手な音を立てて白が割れた。危うい破片が飛び散ったことを、彼女は音だけで知った。


「なら、テメェで確かめてみろ」


 するりと唇を割って入ってくる温度に、絆されたように目を閉じる。"若様"のためだけに淹れるコーヒーの味を、ルークは飽くほどに確かめてきた。ミルクも砂糖もなし、ただ上質な豆の味しかない濃いコーヒー、それが"若様"が至上とする味だ。一息にあおられたその絶妙な苦味をしっかり味わってから、惜し気もなく口を離す。舌が、熱い。


「今日も、変わりはありませんね」


 ドフラミンゴの舌を満足させられるコーヒーは、ルーク以外には淹れられない。


「ああ、悪くねェ。明日も同じものを淹れてこい」

「畏まりました」


 一歩下がって礼をすると、その足裏を尖った破片が傷つけた。薄い靴下に朱が滲んでいく。しかし、それでもやはり彼女は顔色ひとつ変えずにしゃがみ込むと、トレイに陶器の欠片を拾い集めていく。時折触れる指さえもそれらは切り裂いたけれど、ルークには無意味な感覚だった。痛い、と口にしたところで痛みが軽減されるわけではない。またそれ以上に、ルークはそのような無駄な行為をすることを嫌っていた。


「ルーク、そろそろ分かったか?」


 膝をついて後始末をする女に、ドフラミンゴは訊ねる。それは謎かけを愉しむ幼い子どものようだった。不運にも遊び相手に選ばれてしまった女は、最早何を言い返す気力もない瞳、それすら彼にむけることなく、無表情にカップの残骸を集め続ける。


「次からは跪いて給仕致しましょう、若様」


 抑揚のない声で告げたルークに、ドフラミンゴはもう一度高らかに笑った。開いた窓からその笑い声が風に乗って、王国中に響き渡っているような気がする。足裏から地味に主張してくる痛みに、彼女は密かに嘆息する。



舌も言葉も愛も爛れてしまえば


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