(深淵に沈むのか深淵が沈むのか) 



 "魔物"だなんて大仰な名前を、最初につけたのは誰だったのだろう。隣の囚人を嬲り殺しただなんて、確実に嘘だ。霊圧だけで死神を押し潰せるというのもまた、ありえない。彼があの錆びた王国で見たみょうじなまえという死神は、"普通"を体現したような女だったのだから。

 乱菊は果たして何を知っているのだろうか。積み重ねられた書類には目もくれず、市丸はひとり思案に暮れる。彼女の様子は明らかにおかしかった。仮にあの理由、市丸に好意的な態度を取られるおかげで他の罪人から疎まれるというのが、彼女の本心ではなかったのだとしたら? 考えてみるが、彼の頭に妙案が浮かぶことはなかった。しかし確かに言えることは、乱菊が整然とした理由もなく人の話を遮るような、自分勝手な人間ではないということ。


「市丸隊長、どうかなさいました?」


 そんな彼の様子にとうとう不安を感じたのか、席官の一人が彼に控えめに声をかける。声のした方を見れば、あのとき市丸がなまえの存在を知るきっかけとなった噂話をしていた、女死神の一人だった。胸辺りまで伸びた黒い髪が、窓から零れ入る光を受けて艶やかに輝く。とてもよく手入れがなされているらしい。


「どうかしたように見える?」

「悩み事でもされているように見えます」

「ビンゴ。鋭いやん」


 ぴん、と伸ばした人差し指を立てておどけてみせる彼に、女もまた声をあげて笑った。噂話をしていた片割れは、今日は非番でいないようだ。


「あんな、こないだ君らの話聞いて、みょうじなまえに会いに行ってみてん」

「そうなんですか! やっぱり怖い方でした?」

「全然。めっちゃ普通やで、君より普通やで」


 荒んだ空気にあてられたなまえの髪は、当然のことながら、彼女ほど綺麗ではなかった。入浴時間もあるのだろうが、獄内があれでは風呂場も清潔であるかどうか、怪しいところだ。


「君、なんであの子が"魔物"って呼ばれてるんか、知らん?」


 つい先程まで市丸の比較に笑っていた女は、しかし新たな質問には首を傾げた。わからないらしい。やはり都市伝説のようなものだったのだろうかと、市丸はこっそり落胆した。噂話が膨れ上がって、いよいよ原型が何なのか分からなくなってしまえば、それを知るのは、最初に作り上げた人物ただ一人。いるに決まっているのだ。今回だって、元凶は必ずどこかにあるはずなのだ。


「存じ上げませんが……。吉良副隊長は、ご存知ですか?」


 突如予告もなく話を振られた吉良は、目を通していた書類から驚いて顔を上げた。自分に注目している二人に気付き、わずかに動揺していたようだが、二人の話自体は耳に入っていたらしく、内容そのものを聞き返すようなことはしなかった。悩ましげに吐かれる彼の溜息は、最早市丸専門である。


「僕も、人から聞いた話ですがね。彼女に関わった人が、何人か亡くなったんだそうです」


 ひ、と小さく漏れた女の悲鳴は、細かに震えていた。案外影響されやすい子なんやな、と彼は思った。人の死など、死神をしていれば数多く直面してきた問題だろうに。


「でも、それ当たり前ちゃう? ボクかて周り何人か死んどるで。こんな仕事やし、」

「違うんですよ、隊長」


 そこで、なんとも珍しいことに、吉良が市丸の言葉を遮った。


「亡くなった人は皆、彼女が監獄へ収容されても尚、それを認めなかった人たちなんです」


 瞬間、執務室は水を打ったかのように静まり返る。筆を走らせる音も、外の風の音も、自分が息を呑む音も、何もかもが聞こえない。そんな気がした。おそらく、その科白の意味を誰よりも理解できるのは、市丸自身だった。だとしたら、急激に思考回路が鈍っていくこの感覚は、ただの願望か。それとも絶望か。分かりはしなかったけれど。

 今、なんて言った? たったそれだけの質問を、しかし市丸はどうしても聞き返すことができない。


「彼女の無罪を信じた人たちが、次々亡くなった。それが、彼女が"魔物"と呼ばれる理由なんだそうです」


 秋の到来を知らせる虫の鳴き声だけが、噂話に踊らされる哀れな彼らを嘲笑うかのように、高々と響いていた。



深淵に沈むのか深淵が沈むのか


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