(アポロの白昼夢) 



 一歩踏み入った瞬間に襲う、おぞましく張り詰めた空気。身体中に戦慄が走ったのは、致し方ないことだろう。


「なんや、この陰鬱なカンジ……」

「第三監獄は、階段を二つ下ったところですね。参りましょうか」


 暗に早く行けと促す吉良の言葉を受け、市丸はなんだか気の乗らない様子で、また一段一段階段を下っていった。来たいと言い出した当の本人がこれでは、慌てて申請し許可を取ってきた副官の苦労が報われないというもの。しかし、彼も彼でもう慣れてしまったのだろうか、特に気にせずに市丸の後ろに静かに同行している。

 護廷の地下監獄が酷く汚いという話は有名である。汚い、というと直接的過ぎるのだろうか。清潔な環境を保つにも、"罪人のため"となればその気がなくなるのは仕方ないことだ。薄暗い囚人の国を進みながら、罪人が醸し出す独特の何かがあるのだろうと、市丸は思う(彼の素行だって、表も裏も全くもって褒められたものではないのだけれど)。この牢獄を構成するすべてのものが、それの侵食にあって腐っているようだ。溜め込まれて淀んだ酸素が肺を満たしていく心地は、けして寛容し易いものではない。あちこちから漂ってくる錆びた臭いに、ここでは空気までもが錆びてしまっているのではないかと、疑わしくなった。


「嫌なところやね」

「まあ……、進んで来たがる変わり者はそうそういませんね」


 揶揄を孕んだ副官の笑声は、とても小さなものだったのに、監獄では壁に反響して大きく響いているよう。耳の感覚がおかしくなりそうだ。所々で強く揺さぶられる檻の音がするが、それは遠くだったり近くだったり、様々である。かさついた音を立てて足元を這う虫を見つけ、市丸は思わず顔を顰めた。こんな劣悪な環境では、更生も何もあったものではない。


「ところで、その子ってなんて名前なん?」

「例の罪人ですか? みょうじなまえですよ。どうやらかなり長い間収監されているようで、少なくとも僕が護廷に入隊した頃には既にここに入れられていたとか」

「女の子やのに、ずっとこんなとこにおんの? かわいそ……」

「ええ、そうですね……」


 一定の拍を刻んで階段を蹴る足音が、二つ。やがて段差もなくなり、牢屋が続く一本道に入る。囚人たちは、隊長副隊長の二人が揃ってこんな辺鄙な場所に姿を現すことを、物珍しげに眺めていた。時折野次のような声を浴びせる者もいたけれど、市丸が気に留めることもなかったので、すぐに飽きて黙ってしまう。ここまで荒んだ廃墟のような牢獄に、長らく閉じ込められている女の気が知れないと思った。自分も我慢強い性分だとは踏んでいるのだけれど、ここに一ヶ月も閉じ込められれば狂ってしまうだろう。

 それなりの距離を歩き、女の牢屋が見えてきたのは、ほとんど第三監獄の一番奥まで回ってきた頃だった。肌を刺すようにぴりぴりしていた空気感が、そこでほんのわずか消えたのがわかる。後ろについている吉良が、密かに息を呑んだ。というのは、たとえば女の出す威圧感に萎縮したとかいうのではなくて、これから例の"魔物"と対面することへの単なる緊張だったに違いない。そもそも、仮にも副隊長にまで選出された吉良さえ威嚇できるほどの気迫など、どこにもなかったのだから。


「……君、やんな? 第三監獄の"魔物"って」


 茶に変色した鉄格子。水道管から漏れ出た水溜り。走り回るねずみの鳴き声。そんな中、確かに女はそこに居た。壁に背を凭れて、眠るように膝に顔を埋めていた。市丸の言葉に、眠たげにゆったりとあげられた顔は、かすかな動揺を見せてから笑む。立ち上がり檻のすぐ傍までやってくると、格子の隙間に手を添え、「こんにちは」と呟いた。白い肌が、投獄された女の辛苦を体現しているようだった。



アポロの白昼夢


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