(世界は誰かのエゴイズムと少しの迷妄だった) 



 『地下第三監獄には、魔物が住んでいる。』


 滅多に仕事をしに来ない市丸は、久方ぶりに始業時刻ちょうどにやってきた執務室で、そんな言葉をまず耳にした。副官である吉良は、彼が出勤したことがとんでもなく嬉しかったのだろう。目をきらきらさせながら、「今日の予定は、」とか何とか、彼のすぐ横で、立て板に水の如く喋り続けていたのだが、市丸の耳は冒頭の都市伝説のような一文を繰り返し反響させていた。おかげで彼の頭には、今日の予定など全くもって入ってこない。


「何なん、それ?」


 飛び出た疑問符に、執務室にいた席官一同は揃って瞠目する。吉良は、自分の言葉が無視されたことによって。噂話に花を咲かせていた女席官二人は、突然隊長が話に割ってきたことによって。他は、基本他者に興味を持たない市丸が、そんな出処も分からぬ話に食いついたことによって。

 予想外な人物の乱入に、女二人は恥ずかしげに頭を掻きながら、「大した話じゃ、ないんですが」とか細い声で前置きをする。盛大に吐かれた吉良の溜息に、市丸は聞こえなかったフリをして、二人に先を促した(最近吉良の態度があからさまになってきたような気もするが、原因が自分であることくらいは流石に分かっているので、構わなかった)。


「地下の第三監獄に、かなり前から収容されてる女の人がいるらしいんです。その人が、平隊員なら霊圧だけで殺せるとか、隊長にも副隊長にもなってないのに卍解ができるとか、色々言われてて」

「こないだなんか、隣の牢屋に居た男死神を嬲り殺したって聞きました」


 絶、対、嘘。

 徐々に音量をあげていく二人の話を聞いて、市丸の頭にやがて浮かんだ三文字は、まさにこれ。隣の牢屋に居る男をどうやって嬲り殺すというんだろうか。おそらくは霊圧で威嚇するのが精々だし、そもそも地下監獄は霊力を封じる牢屋であるはずなのだから、霊圧さえかけられるわけもない。

 噂話はいつだって尾ひれをつけて、群衆の中を感染していく。特にそれが女性の間であれば、話は厄介だ。想像力の違いか、あるいは現実を受け止める力の差異か、女性はとかく男性よりも事実を壮大に捻じ曲げてしまうものである。然程酷くはないけれど、彼の幼馴染の乱菊にも、その気は多少なりともあるのだし。

 何も面白いことはなさそうだと早々に見切りをつけた、そのとき。


「そういえば、この間は藍染隊長が様子を見にお訪ねになったとか」


 市丸の目の色が、変わる。

 勿論彼は生まれつき糸目だったので、目に宿る光がほんの少し揺れただけのわずかな動揺にも、気付く者はいなかった。

 何も知らぬ護廷の隊士は、ほとんどがあの藍染惣右介を善人と信じている。否、おそらく、信じる信じないの話では最早ないのだ。彼が善人であるのはあくまで変わりようのない事実だった。それこそ、1+1=2という等式のように。しかし市丸だけは知っている。それがただのハリボテで作られた仮面であることを、彼だけは知っている。

 この女隊士は、藍染がその収容者を訪ねたことを、『危険分子の監視』程度にしか捉えていないのだろう。ただ、彼のすべてを知っている市丸にだけは、そう思うことは不可能だった。藍染惣右介はほぼ確実に、自分に何らかの影響を及ぼさない他人に対しては、自ら関わっていくことはないのである。そこに面白みが含まれるときは別かもしれない。隊長という立場上仕方ないときは別かもしれない。しかし今回に限って言えば、そんなはずもあるまい。

 藍染惣右介は何らかの目的を持って、その女に会いに行ったのだ。


「イヅル。午後、出よか」

「……申請しておきますから、午前はちゃんと書類片して下さいよ」


 含んだ物言いのすべてを察してくれる、吉良の機転が市丸は好きだった。「おおきに」と笑って筆を取れば、やがて吉良は足早に執務室を立ち去る。仕事が早いのもまた彼の長所である。そろそろ興も醒めたのだろうか、つい先程まで騒いでいた女二人も黙って自分の仕事に向き、部屋はすぐに静寂に包まれる。市丸はそんな部下たちをのんびり見渡しながら、ふわりとあくびを零した。誰かが小さく、笑った気がした。



世界は誰かのエゴイズムと少しの迷妄だった


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