(ユーフォリアの致死量) 



 病的なまでに白く痩せ細った腕を、その手のひらを、握ってやればよかったと思った。別に今生の別れではない。ただ、あのとき、初めて顔を合わせたあのときに、そうしておくべきだったという確信のない感情か胸の内で渦巻いていた。

 市丸は走り続ける。瞬歩を使う体力などもう残っていなかった。時刻は真夜中。努めて足音を鳴らさぬようにしながら、かなり距離のある三番隊執務室まで。星が空高くから彼を見下ろしていて、不快というわけではないが、なんだか妙な気分だった。


(助けたるって、嘘でも言うたら支えになったんやろか)


 そんなことを考えながら、しかし一方で、市丸は、自分がたった数十分言葉を交わした女にここまで絆されているという事実に、存外驚いていた。けして良心的ではない。善良な人間ではない。お人好しだとか優しいだとか、そんな言葉とはかけ離れた存在が自らであると彼は信じていたのだ。だけど彼は、その予想外な事実の理由を、少しだけ分かっている。

 かわいそうだ。

 かわいそうだ、と思ってしまったのだ。何も悪いことなどしていないのに、不自由な牢獄に監禁され謗られることが。信じてくれた人間を次々失っていくことが。それは藍染の下で悪役を演じてきた、そしてこれからも演じ続けなければならない彼が、本来持ってはいけない感情だった。

 あんな地下牢では、涙を流す音だって誰にも届きはしないのに。


 また息を切らして辿り着いた執務室に、確かに吉良はいた。終わらない書類を徹夜で片付けていたらしく、目の下には濃い隈が浮かんでいる。その目も、突然やってきた市丸のせいで大きく見開かれ、「何事ですか」と問うていた。日中の仕事時間でさえ滅多に現れない市丸だ。夜中に執務室に来ることなど、空から槍が降ってくることと同じくらいあり得ないのだろう。


「イヅル、なまえちゃんのこと教えて」

「は、……みょうじなまえ、ですか? 突然何を……」

「ええから教え。……えと、」


『みょうじなまえが、一体いつ、何をして有罪判決を受けたのか』


 鼓膜に刻まれた言葉をなぞるように、市丸は口にする。首を傾げた吉良は、ところがもう何を問うでもなく「ええと……」と記憶を漁り始めた。理由を訊ねずに要求を呑んでくれる対応力に、本当に救われる。しかし、その時間さえもが永遠に感じられるくらい、市丸は急いていた。やっと、わかるのだ。軽い気持ちで預けた信用に、信じた者は殺されるなどと振り回され、挙句の果てには自隊の席官を一人失った。そのすべてが、やっとわかるのだ。


「事件は、確か百年程前です。細かい年数は覚えてませんが、丁度市丸隊長が護廷に入隊なさった頃のようで」


 うんうん、と頷く市丸は、そのときどこか遠くで響き始めた鈍い警鐘を耳にする。それは甲高い何かの断末魔のようで、地を這う獣の呻き声のようで、徐々に近寄ってくるのだ。猛烈な不快感が腹の底から込み上げてくる理由を、彼は知らない。


『少なくとも僕が護廷に入隊した頃には既にここに入れられていたとか』

『無実の罪、ってやつです』

『仲間を、殺したと』

『君は百年前から変わらないな』


 百年前。まだ自分が幼くそれ故残酷な子どもだった頃。その姿を思い浮かべたとき、頭を、鈍器で思い切り殴られた気がした。美しい月が見下ろす庭、噂以上だと笑う男、土を汚す血飛沫、倒れているもう動かない誰か。

 そんなはずはない。そんなはずはない。市丸は最早考えることを放棄し始めた脳髄の隅っこで、必死に否定する。叫びだしそうになるのを我慢して、こういうときばかり明晰な頭脳が弾き出してしまった可能性から目を反らす。

 それでも、もう、遅い。


「罪状は、」


 泣きたい気もするし、叫びたい気もする。それなのに、表面上はすべての感情が消滅したみたいに、彼はただ沈黙していた。喉の奥でなんとか留まっているものを、堰き止めるのに躍起になっている。そんなはずはない。市丸は心の中で何度も叫びながら、吉良の唇が次の単語を紡ぐのを見つめていた。そして、そんな彼の哀れな姿を、冷めた自分がどこか遠くからぼんやり眺めていることに、彼は気付く。


「当時の、五番隊第三席を殺害したことだそうですよ。市丸隊長の前任の方とお聞きしましたけど、ご存知なかったですか?」



ユーフォリアの致死量


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