(さよならの音がよるに侵される) 



 無遠慮に開けられた障子。肩で息をする来客。果てしない黒に覆われた空は、月の輪郭がぼんやりと浮かび出して、美しくはあったが、どこか不気味だった。


「おや、……珍しいこともあるものだね」


 来客の正体を認め、ほんのわずかに口元を歪める男は、確かにそこにいた。隊長の羽織も死覇装も脱いだ、ただのごく普通の着物を身につけた藍染惣右介は、そこにいた。隊長格の自室となれば、平隊士に比べればとても広い。「入りなさい」促す彼に従って、来客は、市丸は中へと踏み入った。そうして藍染の前に静かに足を組んだ。藍染はその様子を黙って見ていた。

 夕刻から探し続けて、ようやく見つけたのはもう夜半である。瞬歩を乱用したせいでかなり呼吸が乱れてしまった。市丸は沈黙に感謝して、それが整うまで口を開かずにいようと決意する。藍染と面と向かって佇むのは好きではないが、仕方が無い。

 やがて、空気が安らかな呼吸の音を伝え始めたとき、先に口を開いたのは、市丸だった。


「藍染隊長。みょうじなまえについて、聞いてもええですか」


 遠回しに話す気力も、忍耐も、もう持ち合わせてなどいない。


「ああ、そういえば君も彼女のもとを訪ねたんだったね。……なんだい?」

「藍染隊長は、なんであの子のところに行ったんですか」

「勿論、凶悪な罪人の視察さ」

「誤魔化さんと、はっきり言うて下さい」


 有無を言わせぬ強烈な口調に、藍染が閉口する。その顔に浮かぶ嘲笑のような微笑みを、市丸は心底嫌いだと思った。


「なぜ、君がそこまで彼女を気にする必要があるのか、理解に苦しむね」


 自分だってそうだ、とは、言わなかった。ふと零れ落ちたみたいな溜息混じりの呟きに、市丸はしかし反応を寄越さなかった。黙って膝の上で拳を握りしめて、次の言葉を待つ。いつまでだって待ってやるとさえ思っていたくらいだ。どうしてそこまで意地になるのか、彼にも本当に分からなかったのだけれど。


「ボクは、彼女を信じてるんです」


 あの牢獄で"魔物"と対面した。"魔物"なんて大層な異名に、明らかに名前負けしている普通の女がそこにはいた。あの場所であの瞬間、確かに彼女を信じると決めた以上、それがただの好奇心であっても思いつきであっても、彼はそれを貫き通さねばならないのだ。彼女をあの閉鎖空間から救い出すことはできずとも、それが、数時言葉を交わしたなまえへの、せめてもの義理立てだと思うのだ。


「信じていれば、救われると思っているのか? ギン、君はもっと利口な子だったと記憶しているが」

「救われなくたって、構いません。全部、ボクの我儘です。あの子を信じ抜きたいって、ほんまらしくもないボクの我儘です。……藍染、隊長」


 太陽は世界の裏側へと沈んでいる。太陽に嫌われているのか、昼間には姿を現さない星たちが、鈍い輝きを放ち空で踊っている。静寂、陰惨、孤独、そのすべてを孕んだ空気は乾いていて、あの監獄の狭い檻の中と、よく似ていた。

 すう、と吸い込んだ酸素の音さえ、耳に運ばれた響きは鮮明に。


「あなたが、彼女に罪を被せた、犯人なんでしょう」


 藍染は何も言わない。ただ黙って、何かを見定めるかのように市丸の空色の瞳の奥を見つめている。たとえ彼が答えずとも、その目が、是非を語っていた。


「鏡花水月を使うてみょうじなまえに罪被せた。あの子を信じて事件に深入りしようとする人は殺した。あまり丁寧に調べられれば、あの子の無罪がばれてまうかもしれへんから。……違いますか」


 長い沈黙に耐えながら、市丸はふと、部屋の隅に置かれた鏡花水月に目を遣る。完全催眠という強大すぎる能力を持った、藍染の斬魄刀。それを知っているのは彼と東仙だけなのだから、他の隊士では藍染が犯人だと気付くはずがない。藍染がそれを使って、犯人がなまえであるかのように偽造していたなど、気付くはずがない。


「真実が分かれば、それで満足かい?」


 一体何分が経過しただろうか。前触れなく空気を揺らした声音は、低く重い。揶揄するように呟かれた科白には、しかし否定の孕みは少しも感じられない。それは遠回しに、市丸の出した結論が正解であると物語っていた。


「君が監獄へ行くにあたって、吉良イヅルはみょうじなまえについて事前調査をしたらしいね」

「そんなん、今関係ないですやん」

「彼は今、執務室にいるようだよ。彼のところへ行って、聞いてくるといい。みょうじなまえが、一体いつ、何をして有罪判決を受けたのか」


 それを聞けば全てがわかる。優しくそう告げた藍染が、ここまで恐ろしく感じられたことはない。市丸は立ち上がると、退出の挨拶もせずに部屋を駆け出していった。その間際に、「まだ、不完全だ」という愉しげな声を、耳にした。


「すべてを知ればいい。君に、それを背負う覚悟があるのなら」


 開けっ放しにされた障子から、不気味な星空の下へと舞い散っていく言の葉。静かに呟かれた藍染の声を、今度は星たちだけが聞いている。



さよならの音がよるに侵される


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