(ふれてゆれてきえるだけなら) 



 これで何人目だ、という潜められた声を拾った。流石に自らの隊から犠牲者が出たことに、隊士たちも少なからず動揺しているらしい。それはちっぽけなさざ波のようで、しかし彼らに重篤な不安感を与えるには十分すぎる危険性を帯びている。

 副隊長をも伴った緊急の隊主会から帰還した市丸は、そのざわめき立つ波の中で、ただ黙って、成り行きを観察している。被害者が三番隊の一員、それも席官だったため、流石に説明なしでは乗り切れまいと、つい先程に吉良とともに説明をし終えたところである。そうして、「そういうわけや」と嘆息した彼の話に、真っ先に出てきた感想が冒頭の言葉だったわけだ。それが誰のものであったかは、わからなかった。


「それで、やっぱりみょうじなまえが殺したってことなんでしょうか」


 場に降ったのは、冷え切った言葉。かすかに震えるその声の主を見て、納得する。その女を、市丸はよく憶えていた。元はと言えば、すべては、彼女と、殺された席官の女がしていた噂話から始まったのだから。


「なんでそう思うん?」

「だって、いくら無実の罪を主張したところで、彼女が真犯人であることは疑う余地がないんですよ。なのに、彼女の無罪を信じて過去の事件を詳しく調べる人が出てきてしまったら、彼女の有罪が固まるだけです。それをみょうじなまえが恐れたとしたら。……辻褄は、合うと思います」

「せやけど、今回は? あの子はなまえちゃんの無罪なんて信じてへんやろ」


 これまでに倣うのならば、殺されたのはなまえの無罪を信じた人間のはずだった。しかし、今回姿をくらませた(まだ殺されたのかどうかは断定できない)九席は、そこまで他人に良心的な人間ではなかったように思う。優しい子だった。けれどそれだけだ。合格点は取っていても、より高みを目指すことはしない子だった。それはまた、対人関係にしても。自分が不利にならない最低点さえ満たせば、それでいいと思っていたはずだ。

 市丸の反論に窮した女は、ややあってから、控えめに口を開いた。零れ落ちた声は、細かく震えていた。


「私たちが、吹聴したから……」

「え?」

「"第三監獄の魔物"の話、最初に広めたの、私たちなんです。私はすぐに忘れたっていうか、深入りはしなかったんですけど、……あの子、調子付いちゃって、すごくたくさんの人にどんどん広めて……」


 その先は続かなかった。徐々に勢いを失っていく言葉が完全に消え入るまで、市丸はそれに耳を傾けていた。つまり、こういうことだ。話を無駄に広げてしまったことで、なまえの事件に興味を持ってしまった者がいるかもしれない。また、そうでなくとも、これから先彼女に注目が集まるのはごく自然なこと。真犯人は(それがなまえであろうがなかろうが)それに立腹し、その噂の渦を大きくした原因の九席を消した、と。

 そうかもしれないな、と市丸は素直に思った。むしろ、それ以外の可能性は潰えてしまっているような気もした。しかしその一方で、どうにも釈然としない気持ちがあることに彼は気付く。何かが、しっくりこないのだ。


(なんか、おかしい)


 窓の外から射し込んでくる太陽は、鮮やかな夕焼け色で部屋を彩ってくれる。普段なら美しい赤色に見えるはずのそれが、今の彼には毒々しい血の色にしか見えない。

 人を喰い殺す凶悪な深海魚が、存在することは確かなのだ。では、その深海魚がなまえの事件の犯人なのだろうか? 被害者が死んでいる中、手がかりはなまえ本人しか持ち得ない。深海魚に喰われた誰かは、死体さえ上がってはこないのだから。


『あの人が仲間を殺したのを、見たっていう人がたくさんいたの』


 考え出せば、ふと思い起こされるのは先日の乱菊の言葉。そうだ、あの言葉を聞いたときの、妙な感覚は何だったのだろうか。同じような科白を、どこかで耳にした記憶が彼には確かにあった。あれは、いつだ。


「市丸隊長は、なぜみょうじなまえを信じておられるのですか」


 信じていることを大前提として発された問いに、市丸は最早女の勘として理由づけて、答えを探した。「それは、」しかし、言葉が続かない。説明するには長すぎるし、説明できない部分だって大いにある。あの監獄の中でずっと無罪を叫ぶ、その不器用さ。百年前の事件で、実際は無罪であるにも関わらず罪を被せられた隊長の存在。


(……、あれ、)


『……―――名の一般隊士と、一人の隊長格がそれを証明して―――』


(……まさ、か……!)


 鳴り響く鈍い音。音を失う執務室。その中で机を思い切り叩いて立ち上がった市丸は、まるで水面から顔を出した魚のように苦しげな呼吸を繰り返す。隣にいた吉良が「だ、大丈夫ですか」と心配するのも気に留めず、彼は執務室から駆け出した。「隊長!?」慌てふためく席官たちの声を、背後に聞いていた。

 殺人鬼の潜む深海まで、あと、少し。



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