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「昔話をしてやろうか、ロー」

 子どもをあやすような、とても優しい声。昔と何ひとつ変わらないそれに吐き気を憶えながら、ローはミラをペンギンに預け、三人(二人と一匹)に船へ戻るよう指示をした。最初は不安そうな顔をしていた彼らだが、ローがふるふると弱く首を横に振るので、反論しようにもどうしようもなく、ただ唯一の命綱としてシャチをその場に残して船へ戻る他なかった。さすがにドフラミンゴとローを二人にするわけにはいかないのだ、ローを王と定める彼らからすれば。

 ローとドフラミンゴ、そして見張り役としてその場に残された汗たらたらのシャチだけが、森の中にいる。さあ、と、駆け抜ける風に揺れる葉々の音さえも不気味に感じられる、一種の異様な空間だった。

「俺もかつては色々あってね。マリージョアの情勢にもそれなりに詳しい。むこうじゃ一時期大騒ぎになったことがあった。ピアニストのミラが奴隷として売られたってな」
「……、話が見えねぇんだが」
「そいつを奴隷として売ったのは、シャルリア宮っつー女だ。ミラはその父親の代から、天竜人お抱えのピアニストだった」

 えっ、とシャチが間抜けた声をあげる。ローにもそれを咎めることはできなかった。
 お抱えのピアニスト。言い方からして、奴隷、ではないのだろう。しかし、今大事なのはそんなことではない。ミラが、天竜人に仕えていたという過去。その衝撃的な告白がすべて。

「何しろ多くの天竜人が気に入っていたという演奏家だ。勝手に売り払ったその女は周りからこっぴどくお灸を据えられたって話だが、まあ気にしちゃいないだろうな。自分に逆らうやつは誰でも嫌うのが天竜人だ」
「ミラがその女に逆らったと?」
「そうだ。奴隷にも演奏を聞かせて仲良くしてたことが、そいつの気に喰わなかったらしい」

 それで自分が奴隷に落っこちちまうんだから皮肉なもんだな、と、ドフラミンゴは笑った。

「そのまま奴隷として普通に苦しんで死んでりゃよかったんだろうが、まさか海賊になってるとはな。まあ天竜人がミラを殺すつもりでもまた弾かせるつもりでも、連れてきゃそれなりの対価は貰えそうだろ?」

 奴隷として苦しんで死ぬ。その一行に"普通"と加えられる彼の神経を、ローはきっと一生理解できないだろうと思った。ローだって、けして幸せな過去ばかりを生きてきたのではない。奴隷になったことはなくても、それなりに悲惨な世界を生きてきた人間だと思っている。人の苦しみだなんて、どう足掻いても他人が共有できるものではないというのに、なぜこの男はそれをこうもあっさり口にしてしまえるのだろう。
 反吐が出る。

「お前にも他の誰にも、ミラを渡す気はねぇ。俺のクルーだ」
「フッフッフ、そうか。なら精々大事にするんだな」

 散々ちょっかいをかけてきたくせに興味がないという体で、ドフラミンゴは笑う。歪んだ三日月のように端が釣り上がる唇を、心底気味が悪いと思った。

 一際強くなる風。ゆらめく木々。突然のことに目を閉じた一瞬に、ドフラミンゴの姿は消えていた。喚くシャチが煩くて溜息を吐けば、ふと先ほどまで彼がいた場所に残されたものに目が止まる。あの鮮やかなピンクのファーの羽が一本、緑の中に落ちていたのだ。

「……大事に、するさ」

 あいつは、うちの音楽家だから。

 ミラを傷つけた張本人から大事にしろと釘を刺されるなど、彼には屈辱以外の何物でもないだろう。ローは顔をしかめ、拾い上げた彼の置き土産を宙に投げてから、それが落ちるのを確かめもせず背をむけ船に歩き出した。シャチが慌ててその後を追う。早く戻って、傷ついた彼女を治療してやらなければならないのだ。ぼーっとしている暇などない。太陽もすっかり沈んでしまったから、森の中は来た時よりも一段と暗くなっていた。夜の声はまだ、遠い。

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