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<上陸三日目/14:56>

 は、は、と断続的に漏れ出る吐息は、突然の全力疾走で焦る心臓と一緒に喘いでいた。道行く人々から向けられる奇異の目すら歯牙にも掛けず、その足が目指す先は、最早見慣れたイエローの潜水艇。耳に馴染んだあの低い声を、一刻も早く確かめたかった。

 書店の外にいた大男が誰なのか、ミラはわかっていた。ローとの邂逅でも、最初から彼の名前を知っていたくらいには、彼女もまた海賊情勢にそれなりに詳しい。纏われたピンクのファーと、明るいレンズのサングラスと、太陽の光を受けて煌めく金髪、それから、一目で異形とわかる背の高さ。にんまりと吊り上げられた口端の様子は、思えばちょうど、トランプのジョーカーの笑い方とよく似ている。

(無事、だよね)

 船にいるクルーは。街へ出ているクルーは。そして、ローは。

 まさか七武海がこの島に来ているなんて、微塵も考えなかった。それは、彼女以外の船員も皆、そうであろう。ハートの海賊団の誰とも関わりのないであろうあの七武海は、それなのに彼女の胸中の不安を急速に膨張させていく。とにかくその男の所在を知った自分が今、すべきことはひとつ。一刻も早く船に戻って、ローにそれを伝えることだ。今の今、自分に課せられている使命は、それだけなのだから。

 街を出れば、海岸までしばらく森林が続く。それでも、迷うようなことはない。足元には変わらず整えられた小道があったし、森の木々も、たとえばジャングルのそれのように猛々しく存在を主張するのではなく、隅で小さくひっそりと、駆ける彼女を見守っていた。

 ひゅ、と、風が吹き抜ける。


「散歩中か? お嬢ちゃん」


 落ちてきたのは、笑い混じりの、チェックメイト。
 振り向く前に肩が斬られた。鮮血が噴水のように吹き出す様は、気づいた瞬間血の気が引くほどおぞましかった。やってきた"誰か"から慌てて距離を取って、震える息をすべて吐き出す。彼はやはり、笑っていた。

 ……身の毛がよだつ、とでも言えばいいのだろうか。この恐怖と絶望をない交ぜにしたかのような心地を。足は竦み、歯はかたかたとうち震え、背筋を這う悪寒が止まる術を知らない。

「弱そうなやつだ」

 男も飛び跳ね彼女との距離を取ってから、間延びする笑声を喉の奥で籠らせた。護身用にとシャチから預かっていたピストルを構えてみるけれど、震える手のひらにそれを従わせることなどできなくて。

「ローの仲間だというから、少しは期待したんだがなあ」

 男の人差し指が、人形を操るようにくいと持ち上げられた瞬間。握り締めていたはずのピストルがひとりでに抜け出して、男の手の中へと舞い落ちた。突然のことにただただ呆然、「、は、?」と掠れた息を吐けば、即座に腹に来る衝撃。あえなく吹き飛ばされて木に激突すると、打った背も蹴られた腹も尋常じゃなく痛いというのに、込み上がってくる嘔吐感を堪えるのに必死だった。ひゅうひゅうと唇の隙間から零れ落ちるのは、頼りない呼吸の証明。

 血の味がした。

「呼んでみろ、頼りの船長サマを。フッフッフ!」

 気を抜けば意識が持っていかれそうなほど、身体中が痛みを叫んでいる。いつの間にやら彼女の近くまで迫っていた男は、酷く咳き込み、それでもなお、彼を睨むことをやめないミラを、満足げに見下ろした。

「女を甚振る趣味は生憎とねェんだ。ローを呼ぶか、死ぬか、選べ」

 たすけて、船長。
 恐怖と絶望、確実に迫り来る死を目の当たりにしたこのとき、ミラははじめて、ローをそう呼んだ。

<同日/15:00>


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