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<上陸三日目/14:05>

「お遣い、ですか?」

 ミラは船長室にいた。昼のコーヒーを給仕しに行ったところを、医学書の山に埋れていたローに呼びとめられたのである。積み重なった本の隙間から垣間見えるその目元は、ますます濃くなった隈に縁取られていた。これでは、医者と名乗るにはあまりに健康的でないだろう。

「そうだ。これ」

 長い指で挟まれたメモが、ひらりひらりと存在を強調する。本の塔を倒さないように気を付けてそれを受け取れば、よくわからない題名とともに、小難しそうな走り書きが何行か。聞くところによると、なんでも、この島で買った本を早速読んでいたその中に、興味深い文献が載っていたのだそうで、それが欲しいのだという。彼自身は買い込んだ本を読むのにまだ忙しいので、たまたまやってきたミラに仕事を頼んだというわけだ。

「余った金はやる。楽譜でもなんでも好きなの買ってこい」

 ついで渡された紙幣の束は、そこら中の医学書の分厚さと同じくらいの量があり、流石のミラも言葉を失った。服やアクセサリー、ではなく、楽譜、というものを贅沢品として真っ先にあげるあたり、ローもよく彼女のことをわかってきた様子が表れていたが、それに彼女は気付けなかった。

「それから、シャチか誰か暇してるやつ連れてけ。いいな」
「わかりました」

 仰々しく敬礼のポーズをとってから、ミラはそろりと部屋を出る。部屋の主は変わらず黙々と、新しい知識を貪欲に貪っている。活字と紙の匂いがすっかり染み付いた船長室から出ると、船内は随分ぬくぬくとしていて、それだけが彼女には不思議だった。

<同日/14:40>

 その後の成り行きを結論から言えば、ミラは誰を誘うこともなく、一人で街を歩いていた。それは勿論、ローの命令に好んで逆らったわけではなく、ただたまたま、手の空いている人が見つからなかったのだ。皆各々の仕事やら趣味やらに時間を費やす中で、どうして自分の仕事を手伝ってくれと頭を下げることができようか。唯一勇気を出して声をかけてみたペンギンにも、案の定忙しそうで、「悪いがシャチか誰かに頼んでくれ」と断られてしまった。暇してる人、としての代表格が先ほどから一切変わらずシャチであることには、まあ触れないでおこう。

 つなぎのポケットには渡された札束(おそらくはその表現が正しいはずだ)。昨日にも街へ繰り出した彼女は、その地図が脳内にそこそこ記憶されていたので、本屋まで行くのに、そう時間はかからない。やがてたどり着いた店に入り、カウンターにいる店員にメモを見せると、彼は眉根を寄せて、思い切り首を傾げた。たくわえられた白いひげが、一緒にゆるりと揺れた。

「これ、つい最近絶版になった本だな。ちょっと探してみるから、待ってろ」
「ありがとうございます」

 そう言ってスタッフルームの奥へと戻っていく店員にお辞儀をして、ミラはぶらぶらと本屋の中を歩き回り始めた。向かうは音楽書のコーナーである。楽譜は勿論のこと、長らく触れられなかった楽典にもまた触れたい。ありがたいことにお金は十分すぎるほど頂いたので、値段は気にせずに欲しいものを選ぶことにして、彼女は楽譜を二冊と、厚めの楽典書を一冊手に取った。

 その、次に訪れた一瞬、だったように思う。ふと目に入った大きな窓の外、街の道を優雅に歩く見知らぬ男の姿が、信じられないほどに彼女の警戒心を掻き立てたのは。

 それは、至極致し方ないことだった。何せ男は、窓から見える範囲を通り過ぎる、その一秒にも満たない時間の中で、店の中にいるミラを視界に捉えて、にたりと微笑んだのだから。

<同日/14:57>

「嬢ちゃん、お探しの本なら見つかっ……、あれ、嬢ちゃん?」

 やがて、奥でローの求めた本を探し出してきた店員だけが、忽然と姿を消した女に、床に散らばるいくつかの音楽書に、ただただ状況が呑み込めず、ひとり首を傾げていた。

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