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「ミラ、悪いんだが船長を起こしてきてくれないか」


 ミラは目を白黒させた。口元まで運ばれたスプーンから、なんとも悲しげにスープが零れ落ちる。「私が、ですか?」と心底不思議そうに聞き返す彼女に、依頼をしたコックは苦笑した。


「あの人いつも朝が遅いんだが、もう昼飯時だしな。そろそろ何か食べてもらわないと」

「でも、私が船長室に入ってもいいのでしょうか」

「勿論、ミラだってクルーだろ。それに女の子相手なら、あの人も流石にやり過ぎたりしないだろうし」


 新入りのミラは"やり過ぎたり"の意味を解せるはずもなく、ただ「はあ……」と曖昧な返事をすることしかできない。ローの能力を彼女はまだ然程詳しく知らなかったのだから、仕方ないことだろう。コックの態度から察するに、あまり喜んでは為されない仕事のようだと判断して、スープを一息に飲み干してから立ち上がった。新入りなのだからそのような仕事も率先してすべきだという、奇妙な決意が彼女の胸中にはあった。


「まあ頼むよ、できる範囲で」


 食器を下げながら、コックは笑って手を振っている。大きく頷いてから、彼女はこの船の主が寝ているであろう船長室にむけて、走り出した。時計の針は、まもなく頂点に到達しようとしていた。




 船長室に行くのは初めてだった。船内の一番奥にあるその部屋は、ある種の孤独感というか、排他的な空気が流れているような気がして、立ち寄り難い。隣に並んでいるらしい部屋はほとんど書物庫化していて、最早部屋の体をなしていないと聞いた。

 だからミラは、その部屋の扉を開けるとき、覚悟を決めなければならなかった。まだ入って間も無いのだ、船長に会うのに緊張して当然。しかしそんな優しい言葉をかけてやる人物がその場にいるはずもなく、彼女の焦燥はやむことがない。初めに二度鳴らしてみたノックすらも、すっかり萎縮していた。彼女は深く息を吸い込んでから、もう二回、拳で扉を叩く。先ほどよりも、幾分強めに。

 返事は、ない。

 三十秒ほど待ったが、反応は一向に返ってこない。ミラはもうどうにでもなれと、半ば自棄になって扉を開けた。それでもその動作がゆっくりだったのは、まあなんとも彼女らしくはあったのだが。


「ロー、さん……?」


 部屋の奥に、ベッドがある。その上に寝転がって、男はひそやかに眠っていた。朝を拒絶するように彼女に背を向けている、その様を見ると、この部屋が船の一番奥にある事実にも、どこか納得がいく。


「ローさん、ミラです。朝、……お昼、ですよ」


 ぴく、とそれは動いた。あわせてミラの肩も跳ねた。男の身体は、徐々に正気を取り戻していくかのように、ゆっくりと活動を始める。壁を見つめていた顔が、枕に埋れてからミラの方に向いた。鋭い双眸が、朝の来訪を睨んでいる。


「何時だ」

「今、十二時を少し過ぎたところです」


 ローはむくりと起き上がると、寝癖であちこちに跳ねた髪の毛を掻きむしった。眠っても彼の目の下の隈が消えないのは、なぜなのだろうか。


「お目覚めください、ローさん」


 警戒なく大きなあくびをする彼の姿が案外可愛らしくて、ミラは笑ってしまいそうになるのを堪えながら告げる。朝が苦手と言われて驚きはしないが、彼女にはなんだか、自分が彼の朝を奪っている気がした。ローに薬を処方されてから、彼女が悪夢に魘される夜はぱたりとなくなったけれど、その代わりに、彼が朝上手に起きれないというように。


「夢に、お前のピアノが出てきた」


 しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟きが落ちる。思い出そうとしても上手くいかないのだろうか、ローは渋い顔をしている。自分が話題にのせられたミラは、突然の出来事に戸惑った様子で、「はい」と頷いた。


「……後で、弾け」


 ぽかんとしている彼女など気にも留めず、ローは再び盛大にあくびをすると、ベッドから降りてさっさと部屋を出て行ってしまった。取り残されたミラが、部屋でひとり、彼の背中を静かに見送る。その表情は確かに優しく緩んでいたのだけれど、無意識だったので、彼女は自らが自然と微笑んでいることに気付かなかった。

 後を追うように、彼女もまた船長室を後にする。人の気配を失った空間には、ささやかな空調の音だけが響いている。

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